大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

消残りの雪にあへ照るあしひきの・・・巻第20-4470~4471

訓読 >>>

4470
水泡(みつぼ)なす仮(か)れる身ぞとは知れれどもなほし願ひつ千年(ちとせ)の命(いのち)を

4471
消残(けのこ)りの雪にあへ照るあしひきの山橘(やまたちばな)をつとに摘(つ)み来(こ)な

 

要旨 >>>

〈4470〉水の泡のようにはかない仮の身とは承知しているけれど、それでもやはり願わずにいられない。千年の長い命を。

〈4471〉消えずに残った雪に山橘の実が照り映えて輝いている。家への手みやげにするため摘んで来よう。

 

鑑賞 >>>

 大伴家持の歌。4470は、「寿(いのち)を願ひて作る」歌。「水泡なす」は、水の泡のようにで、「仮れる」の比喩的枕詞。「仮れる身」は、はかない仮の身。「知れれども」は、知識として知ってはいるが。「なほし」は、それでもやはり。「し」は、強意の副助詞。病床にあって、焦燥感・無力感にさいなまれながらなおも現実に執着しようとしている歌です。窪田空穂は、「本能としての生命欲を肯定したものである。仏道を尋ねたいという上の二首の歌(4468・4469)も、要するにこの欲望の展開であって、家持の衒いのない、正直な人柄の表現である」と述べています。

 この時、家持を覆った深刻さは、病に臥した嘆きとともに、政界で最も頼りにしていた橘諸兄が引退、死去し、将来への展望が見い出し難くなったことでもあります。諸兄が亡くなったあとの中央政界の要職は、右大臣に藤原豊成、大納言に藤原仲麻呂、権中納言藤原永手、参議に藤原清河、藤原八束らが名を連ね、他氏では中納言に紀麻呂、多治比広足、参議に大伴兄麻呂、石川年足橘奈良麻呂らが在職したのみでした。家持はこの時期、従五位上・兵部少輔の位にありました。

 4471は、冬11月5日の夜、小さな雷が鳴り、雪が降って庭を覆ったので、にわかに感憐(かんれん)をだいて作った歌。 「雪にあへ照る」は、白雪と山橘の赤い実の色の配合がぴったり調和して照るさま。「あしひきの」は「山」の枕詞。「山橘」は、ヤブコウジの古名。山地に自生する小低木で、夏に白い花を咲かせ、秋には赤い実となります。「つと」は、みやげ。「来な」の「な」は、意志・希望。11月5日は、太陽暦の12月1日に当たります。窪田空穂は、「家持という人のさながらに見えている歌である。そぞろに詠んでいる軽い歌ではあるが、自画像の趣がある」と述べています。

 

 

『万葉集』掲載歌の索引

大伴家持の歌(索引)