訓読 >>>
4475
初雪(はつゆき)は千重(ちへ)に降りしけ恋ひしくの多かる我(わ)れは見つつ偲(しの)はむ
4476
奥山(おくやま)のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ
要旨 >>>
〈4475〉初雪よ、幾重にも降り積もれ。恋しさのつのる私は、それを眺めながらあの人を偲ぼう。
〈4476〉奥山に咲く樒(しきみ)の花の名のように、しきりにあなたにお逢いしたいと思い続けることか。
鑑賞 >>>
天平勝宝8年(756年)11月23日、式部少丞(しきぶのしょうじょう)大伴宿祢池主の家に集まって飲宴(うたげ)したときの歌。「式部少丞」は、式部省の三等官。作者は大原真人今城(おおはらのまひといまき)。今城は、はじめ今城王を名乗っていましたが、臣籍降下して大原真人の姓を賜わった人。母方が大伴一族だったため、大伴家の人々と深く関わる立場にあり、家持とも親しかったようです。
4475の「降りしけ」は、一面に降れ。「恋ひしく」は「恋ひき」のク語法で名詞形。4476の「しきみ」は、モクレン科の常緑高木で、初夏に淡黄色の小花を咲かせます。現在では仏前に供える樒(しきみ)ですが、この時代にはそうしたものではなかったようです。シキの音が何度も繰り返す意のシクを連想させるところから、この植物名を引いたと見られます。「名のごとや」の「や」は、末尾の「なむ」と応じて、詠嘆的疑問を表しています。「しくしく」は、しきりに。
いずれも主人の池主に対する挨拶歌とされますが、池主の歌はなく、大原真人今城の歌しかありません。あるいは、4475の「見つつ偲はむ」の対象と、4476の「君」は、この場に居合わせなかった家持を指したものか、とする見方があります。それによると、まだ奈良麻呂の変が起きる半年前ではあるものの、君子危うきに近寄らず、先帝の諒闇(服喪)中でもあり、用心深い家持は、あれほど親しかった池主の茲許の動きに疑問を感じて、殊更に避け、あとから今城の報告受けたのではないか、というのです。
橘奈良麻呂の変
奈良時代の中ごろにあたる天平宝字元年(757年)に起こった、橘諸兄の遺児・奈良麻呂を中心とするグループによる反藤原のクーデターが発覚した事件。奈良麻呂には大伴一門の多くが与しており、家持の歌友だった池主もその一人です。この時の家持は軍事担当の兵部省の大輔に昇進したばかりで、むしろクーデターを鎮圧する側の立場にありました。そうした動きを事前に察知していたと思われますが、家持はこれには加わりませんでした。結果、計画は藤原仲麻呂によって鎮圧され、奈良麻呂ほか多くが捕縛されることとなり、池主も同じ運命だったようで、その後の消息が分からなくなっています。奈良時代有数の政変となった事件です。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について