訓読 >>>
1032
大君(おほきみ)の行幸(みゆき)のまにま我妹子(わぎもこ)が手枕(たまくら)まかず月ぞ経(へ)にける
1033
御食(みけ)つ国 志摩(しま)の海人(あま)ならし真熊野(まくまの)の小舟(をぶね)に乗りて沖へ漕(こ)ぐ見ゆ
要旨 >>>
〈1032〉天皇の行幸につき従って、いとしい妻の手枕をすることもなく月日が経ってしまった。
〈1033〉天皇に御食を奉る国、志摩の国の海人であろうか、真熊野の小船に乗って沖の方へと漕いで行くのが見える。
鑑賞 >>>
天平12年(740年)8月、太宰少弐の藤原広嗣が、政界で急速に発言権を増す唐帰りの僧正玄昉と吉備真備を排斥するよう朝廷に上表しましたが、受容れられず、9月に筑紫で反乱を起こす事件が起きました。10月、都に異変が勃発するのを恐れた聖武天皇は避難のため東国へ出発し、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に入り、12月15日に恭仁宮へ行幸、そこで新都の造営を始めました。大伴家持は、内舎人(うねどり:天皇近侍の文官)としてこの行幸に従っていました。
ここの歌は、1029の河口行宮を経て、狭残(さざ)の行宮にして家持が詠んだ歌。すでに月が変わり、11月になっていました。「狭残」は、三重県多気郡明和町大淀とされます。1032の「行幸のまにま」は、行幸のままに任せて。「まにま」は、ママニと訓むものもあります。「手枕まかず」の「まかず」は、枕とせず。
1033の「御食つ国」は、天皇の食料を貢する国の意。「志摩」は、三重県鳥羽市・志摩市の沿岸地域。志摩は漁業の国で、神代より魚類や海藻など海の物を献じていた国です。「ならし」は「なるらし」の転。「真熊野の小舟」の「真」は接頭語で、良質の木材の産地と知られていた熊野の材で造られた舟。「見ゆ」は、見える。窪田空穂は、934の赤人の歌「朝なぎに梶の音聞こゆ御食つ国野島の海人の船にしあるらし」に負うところが多く、古歌のすぐれたものを摂取して自身を進歩させようとする心の現われが見える、と述べています。
天平12年(740年)に、九州地方で起きた反乱。大養徳(大和)守(やまとのかみ)から大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷されたことを不満に思った藤原広嗣(宇合の子)は、対立していた僧玄昉(げんぼう)・吉備真備(きびのまきび)2人を除くことを要求する上表文を提出した。しかし、広嗣は朝廷からの返事を待つことなく、8月末に管轄下の兵を動員して東上を開始。急報を受けた聖武天皇は、全国的に動員をかけ、大野東人(おおののあずまひと)を大将軍とする兵を西下させた。両軍は北九州各地で激戦、敗れた広嗣は五島列島の値嘉島(ちかのしま)からさらに西方へ脱出しようとしたが逮捕され、11月初め処刑された。この乱は聖武天皇の恭仁京・紫香楽宮への遷都の原因となり、また折からの天然痘流行とあいまって、国分寺・東大寺造営の直接の契機となった。