訓読 >>>
1038
故郷(ふるさと)は遠くもあらず一重山(ひとへやま)越ゆるがからに思ひぞ我(わ)がせし
1039
我(わ)が背子(せこ)とふたりし居(を)らば山高み里(さと)には月は照らずともよし
要旨 >>>
〈1038〉奈良の旧都は遠いわけではないのに、たった山一つを越えるだけで、こんなに恋しい思いをしている。
〈1039〉あなたとこうして二人でいれば、山が高くて、この里に月が照らさなくても構わない。
鑑賞 >>>
高丘河内(たかおかのこうち)が、造営中の恭仁京にあって詠んだとされる歌。高丘河内は、百済の公族の子孫で帰化人。養老5年(721年)に教育係として、佐為王、山上憶良などと共に首皇子(のちの聖武天皇)に侍すよう命じられ、東宮侍講となった一人で、聖武天皇即位後に無姓から高丘連に改姓。天平勝宝6年(754年)に正五位下。歌を詠んだこの時期には、恭仁京の宅地班給に当たったり、紫香楽離宮司に任じられているので、土木建築の技能を有していたことが窺われます。『万葉集』には、ここの2首のみ。
天平12年(742年)12月に、奈良京から恭仁京に遷都されました。廷臣らは新京に移らなければなりませんが、住居の手配が間に合わず、家族を旧都に残す場合が多くありました。ここの歌もそれをうたっています。1038は、旧都の奈良に残した妻を思った歌。「故郷」は、恭仁京から見た奈良京のこと。「一重山」は、固有名詞ではなく、一重の山の意。「越ゆるがからに」の「からに」は、たった~のゆえに。1039の「我が背子」は、男の友人を親しんで呼んだ語。「二人し」の「し」は、強意の副助詞。「山高み」の「高み」は「高し」のミ語法で、山が高いので。「里」は、作者のいる場所。「よし」は、構わない、ままよの意。
聖武天皇が天平12年(740年)~同15年(743年)まで営んだ都。その後、都は、天平15年に紫香楽宮、同16年(744年)に難波宮へ遷都され、同17年(745年)に平城京に戻されました。恭仁京は、相楽郡恭仁郷の地に位置していたことによる命名。都城制にのっとった宮都で、内裏や官公庁などの宮殿は左京、人民が住む京域は右京に建設する計画で造営が進められていましたが、道半ばで都の造営は中止されました。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について