訓読 >>>
4477
夕霧(ゆふぎり)に千鳥(ちどり)の鳴きし佐保道(さほぢ)をば荒(あら)しやしてむ見るよしをなみ
4478
佐保川(さほがは)に凍(こほ)りわたれる薄(うす)ら氷(び)の薄き心を我(わ)が思はなくに
4479
朝夕(あさよひ)に音(ね)のみし泣けば焼き太刀(たち)の利心(とごころ)も我(あ)れは思ひかねつも
4480
畏(かしこ)きや天(あめ)の御門(みかど)を懸(か)けつれば音(ね)のみし泣かゆ朝夕(あさよひ)にして
要旨 >>>
〈4477〉夕霧に千鳥が鳴いていた佐保道を、この先荒れるに任せてしまうのでしょうか。お逢いすることができなくなってしまって。
〈4478〉佐保川に薄く凍りわたっている氷のような、そんな薄っぺらな気持ちで、私があなたを思っているわけではないのに。
〈4479〉朝夕、ただ声をあげて泣くばかりで、焼いた太刀のようなしっかりした心など持っていられません。
〈4480〉恐れ多くも、天皇陛下のことを心に思い浮かべると、声をあげて泣くばかり。朝にも夕にも。
鑑賞 >>>
4475~4476に続き、天平勝宝8年(756年)11月23日、式部少丞(しきぶのしょうじょう)大伴宿祢池主の家に集まって飲宴(うたげ)したときの歌。「式部少丞」は、式部省の三等官。ここの4首は、いずれも客人の大原真人今城(おおはらのまひといまき)が披露した古歌です。今城は、はじめ今城王を名乗っていましたが、臣籍降下して大原真人の姓を賜わった人。母方が大伴一族だったため、大伴家の人々と深く関わる立場にあり、家持とも親しかったとされる人です。
4477は、「智努女王(ちののおほきみ)の卒(みまか)りし後に、円方女王(まとかたのおほきみ)の悲傷して作る」歌。智努女王は、神亀元年(724年)に従三位ながら系譜未詳。ただし、題詞に、三位以上に用いられるべき「薨」ではなく「卒」が用いられているので同名別人とする説も。円方女王は、長屋王の娘。神護景雲2年(768年)に正三位。「佐保道」は、佐保の地を通る道。奈良市の北部を流れる佐保川の北の一帯で、長屋王の邸宅がありました。「荒しやしてむ」は、自分が通わなくなったために荒れていくことを、自分を主格にして放任的に表現したもの。「見るよしをなみ」は、逢う方法がないので。
4478は、大原桜井真人(おおはらのさくらいまひと)が「佐保川の辺に行きし時に作る」歌。大原桜井真人は、敏達天皇の後裔、筑紫大宰帥・河内王の子で、もと桜井王、天平11年(739年)に兄弟の高安王・門部王らと共に大原真人姓を賜与され臣籍降下した人。和銅7年(714年)無位から従五位下に叙せられ、神亀元年(724年)に正五位下。このころ風流侍従の一人に数えられていました。「凍りわたれる」は、一面に凍っている。上3句は「薄き」を導く同音反復式序詞。
4479は、藤原夫人(ふじわらぶにん)の歌。天武天皇の夫人で、通称は氷上大刀自(ひかみのおおとじ)。巻第2-104の作者である藤原夫人・五百重娘(いおえのいらつめ)の姉にあたり、いずれも藤原鎌足の娘。「焼き太刀の」は、良く焼き鍛えた太刀の、で、鋭い意から「利心」にかかる枕詞。「利心」は、しっかりした心。「思ひかねつも」は、思っていられない。何らかの事情で、天皇を激しく恨み悲しむことがあった折の歌と見えますが、その事情が何であるかは分かりません。
4480は作者未詳歌。「畏きや」の「や」は感動の助詞で、恐れ多い。「天の御門」は、朝廷、天皇。「懸けつれば」は、心に思うと。「泣かゆ」の「ゆ」は、自発。4479の上2句と表現が似ていることから、併せて披露されたものとみえます。天武天皇の死を悼む歌ではないかとされ、側近する女官が詠んだものかもしれません。以上4首はいずれも悲しい歌ばかりであり、慌しい時勢を憂うことと関係があるのかもしれません。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について