大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

心には千重に思へど人に言はぬ・・・巻第11-2371~2374

訓読 >>>

2371
心には千重(ちへ)に思へど人に言はぬ我(あ)が恋妻(こひづま)を見むよしもがも

2372
かくばかり恋ひむものぞと知らませば遠くも見べくあらましものを

2373
何時(いつ)はしも恋ひぬ時とはあらねども夕(ゆふ)かたまけて恋ひはすべなし

2374
かくのみし恋ひやわたらむたまきはる命(いのち)も知らず年は経(へ)につつ

 

要旨 >>>

〈2371〉心の中では幾重にも思い続けているけれど、人には言えない私の恋妻に逢う術があってほしい。

〈2372〉こんなにも恋することが苦しいものと知っていたら、遠くから見るだけでよかったものを。

〈2373〉いつといって恋い焦がれない時はないけれど、夕方近くなってくると、やるせなくてしかたがない。

〈2374〉こんなにも、私はいつまで恋い続けるのだろうか、いつまでも続く命ではないのに、年月ばかりが過ぎていく。

 

鑑賞 >>>

 『柿本人麻呂歌集』から「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」4首。「正述心緒」歌は「寄物陳思(物に寄せて思いを述ぶる)」「譬喩」と共に、相聞歌の表現方法による下位分類であり、巻第11・12にのみ見られます。一説には柿本人麻呂の考案かとも言われます。

 2371の「心には千重に思へど」は、心の中では限りなく思っているが。チタビオモヘドと訓むものもあります。「恋妻」は、相思相愛である妻、恋人の意の称で、一方的に思いを寄せている場合には用いないとされます。「人に言はぬ我が恋妻」とあるので、正式に戸籍上の妻と認められている女性を指すものではなく、かといって側妻や妾の類ではないと察せられます。「見むよしもがも」の「よし」は、方法、術。「もがも」は、願望。逢うすべがあってほしい。

 2372の「かくばかり」は、こんなにも。「知らませば」の「ませ」は、反実仮想。「遠くも見べくあらましものを」の原文「遠可見有物」で、トホクミルベクアリケルモノヲ、トホクミベクモアラマシモノヲなどと訓むものもあります。

 2373の「何時はしも」の「し」は強意の副助詞、「も」は係助詞で、いつといって特に。「夕かたまけて」は、夕方が近くなって。逢引の夜が近づいてきたことを示しています。「すべなし」は、やるせない、堪えられない。自身の外側の事実について言っているのではなく、自己の内部において募る恋心について表現しているもの。

 2374の「かくのみし」の「し」は、強意の副助詞。原文「是耳」で、カクシノミ、カクノミヤなどと訓むものもあります。「たまきはる」は「命」の枕詞。「命も知らず」は、命の続くほども知れないのに。「年は経につつ」の「つつ」は、同じ状態がそのまま継続すること。

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引