大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

馬並めてうち群れ越え来今日見つる・・・巻第9-1720~1725

訓読 >>>

1720
馬(うま)並(な)めてうち群(む)れ越え来(き)今日(けふ)見つる吉野の川をいつかへり見む

1721
苦しくも暮れゆく日かも吉野川(よしのがは)清き川原(かはら)を見れど飽(あ)かなくに

1722
吉野川(よしのがは)川波(かはなみ)高み滝(たき)の浦を見ずかなりなむ恋(こひ)しけまくに

1723
かわづ鳴く六田(むつた)の川の川柳(かはやぎ)のねもころ見れど飽(あ)かぬ川かも

1724
見まく欲(ほ)り来(こ)しくも著(しる)く吉野川(よしのがは)音(おと)のさやけさ見るにともしく

1725
いにしへの賢(さか)しき人の遊びけむ吉野の川原(かはら)見れど飽(あ)かぬかも

 

要旨 >>>

〈1720〉馬を並べ鞭をくれながらみんなで山を越えてきて、今日やっと吉野川を見ることができた。この美しい川の流れをいつまた見ることができるだろう。

〈1721〉残念なことに日が暮れて行く。吉野川の清らかな川原は、いくら見ていても飽きることがないというのに。

〈1722〉吉野川の波が高いので、上流の滝の入江までは見ずに終わってしまいそうだ。後で悔やむことになりそうだ。

〈1723〉河鹿が鳴く六田の川の川柳、その根のように念入りに見ても、見飽きることのない川だ。

〈1724〉一度見てみたいと思ってやって来た甲斐があって、吉野川の瀬音の何とすがすがしいことか。見れば見るほど魅せられる。

〈1725〉昔の賢人たちも来て遊んだという吉野の川原、この川原は、見ても見ても見飽きない。

 

鑑賞 >>>

 6首連作で、いずれも吉野へ遊んだ歌。1720~1722は、「元仁(ぐわんにん)の歌三首」。元仁は伝未詳で、「元」は氏、「仁」は名で、渡来系の人か、あるいは学者の漢風名か、僧侶名などとする説があります。いずれも吉野へ遊んだ歌であり、次の3首と一連の歌となっています。1720の「馬並めて」は、友と乗馬を並べて。1721の「苦しくも」は、残念なことに。1722の「高み」は、高いので。「浦」は、流れが湾曲した入江。当時の人は、池や川に対して、海の名を流用して喜んでいたようです。「見ずかなりなむ」は、見ずに終わるのだろうか。「恋しけ」は、形容詞「恋し」の未然形。「まく」は、推量の助動詞「む」の名詞形。「に」は、詠歎。

 1723は、題詞に「が歌」とあるものの、「絹」は伝未詳。土地の遊行女婦あるいは絹麻呂などの略称か。「かはづ」は、カジカガエル。「六田の川」は、吉野川奈良県吉野郡の六田の地での呼称。「川柳」は、川岸の柳。以上3句は、実景であると共に、根と続いて「ねもころ」を導く序詞。「ねもころ」は、念入りに。

 1724は、題詞に「島足(しまたり)が歌」とあるものの、「島足」は伝未詳。「見まく欲り」は、見たいと願って。「来しく」は「来し」の名詞形。「著く」は、効果があって。「ともしく」は、心惹かれて、珍しくして。佐佐木信綱はこの歌を、「視覚と聴覚との感銘が二つに分裂することなく、一首中によく統合されている」と評しています。

 1725は、題詞に「麻呂が歌」とあるものの、「麻呂」は伝未詳。人麻呂かともいわれます。「いにしへの賢しき人」は、天武天皇の御製(巻第1-27)の「よき人」を意識しているとされます。「遊びけむ」の「けむ」は、過去の伝聞。窪田空穂は、「吉野川の河原を見て、言い伝えとなっている古の賢い人の遊んだ所だと思ってなつかしむというのは、この当時としては深みのある心で、上の五首とは類を異にしている。人麿の詠み口ではあるが、それとしては凡作である」と述べています。しかし、『人麻呂歌集』の歌でありながら「麻呂」と記しているのは不審とされます。

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引