大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

三川の淵瀬も落ちず小網さすに・・・巻第9-1717、1719

訓読 >>>

1717
三川(みつかは)の淵瀬(ふちせ)も落ちず小網(さで)さすに衣手(ころもで)濡れぬ干(ほ)す子は無しに

1719
照る月を雲な隠しそ島蔭(しまかげ)に我(わ)が船(ふね)泊(は)てむ泊(とま)り知らずも

 

要旨 >>>

〈1717〉三川の淵にも瀬にも残らず小網を張っているうちに、着物の袖が濡れてしまった。干してあげようと言う子もいないのに。

〈1719〉明るく照る月を、雲よ隠さないでおくれ。島陰に我らの舟を泊めるのに、暗くて船着場が分からないではないか。

 

鑑賞 >>>

 1717は題詞に「春日が歌」とあるのみで、春日蔵首老の作であるかは確定しません。巻第9のこのあたりの題詞は非常に不親切で、この歌の前後にある1716・1718も、それぞれ「山上の歌一首」「高市の歌一首」とあるのみです。このような簡便な記名がなされているのは、内輪の仲間や旧知の人の作を集めた私的な資料の類だったからかもしれないとの見方があります。「三川」は、所在未詳。「小網」は、柄のある漁用の網。「衣手」は、着物の袖。「干す子」は、濡れた衣を乾かすなどの面倒を見てくれる若い女性。旅先の詠であり、その不自由さを訴えている歌です。

 1719は「春日蔵が歌」とあり、1717の作者と同一人とする説もありますが、わずか1首を隔てて作者名の表記が異なるのは不審とされ、また同一人なら2首をまとめて記すと考えられるところです。「雲な隠しそ」の「な~そ」は、禁止。「知らずも」の「も」は、詠嘆。なお、左注に「右の一首は、或る本に云ふ、小弁の作なりと云へり」云々の記載があります。「小弁」は、伝不明。弁官の官名であるなら「少弁」と記すはずであり、春日蔵首老の僧名が弁基(べんき)であったことから、僧時代の「小弁」の通称(あだ名)が還俗後にも用いられ、後に別人として誤って扱われたものかもしれません。

 春日蔵首老は、弁記という法名の僧だったのが、大宝元年(701年)、朝廷の命により還俗させられ、春日倉首(かすがのくらのおびと)の姓と老の名を賜わったとされる人物です。和銅7年(714年)正月に従五位下。『懐風藻』にも詩1首、『万葉集』には8首の短歌が載っています(「春日歌」「春日蔵歌」と記されている歌を老の作とした場合)。

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引