訓読 >>>
2422
石根(いはね)踏むへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも
2423
道の後(しり)深津(ふかつ)島山(しまやま)しましくも君が目見ねば苦しかりけり
2424
紐鏡(ひもかがみ)能登香(のとか)の山も誰(た)がゆゑか君来ませるに紐(ひも)解かず寝(ね)む
2425
山科(やましな)の木幡(こはた)の山を馬はあれど徒歩(かち)ゆ吾(あ)が来(こ)し汝(な)を念(おも)ひかね
要旨 >>>
〈2422〉大きな山で隔てられている山ではないが、逢えない日が続くので、ずっと恋い焦がれてばかりいる。
〈2423〉備後の国の深津島山、その”しま”ではないが、ほんの”しばし”の間もあなたに逢えないと、苦しくてたまらない。
〈2424〉能登香の山の名のように、いったいほかの誰のせいで、あなた様がいらしたのに紐も解かずに寝ることでしょうか、そのようなことはありません。。
〈2425〉山科の木幡の山道を徒歩でやって来た。おれは馬を持ってはいるが、お前を思う思いに堪えかねて歩いてきたのだ。
鑑賞 >>>
『柿本人麻呂歌集』から「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」4首。2422の「石根」の「根」は、接尾語。「石根踏む(石踏む)」は、岩がごつごつ出た険しい山道を通るのが危険だという定型的な言い方。「まねみ」は、多いので、たび重なるので。窪田空穂は、「公務を帯びて京近い地へ出張している官人の嘆きである」としています。
2423の「道の後」は、都から地方へ通じる道の、その遠い所の意。「深津」は、備後の国深津郡で、今の福山市付近。「島山」は、普通には島にある山のことですが、ここでは、海上から望む広い地の山のことをいっています。上2句は「しましく」を導く同音反復式序詞。「しましくも」は、しばしの間でも。畿外の地名が歌われているのは、人麻呂が地方の歌の表現を採り入れつつ作ったものか。
2424の「紐鏡」は、裏側のつまみに紐のついた鏡で、その紐を解くなの意のナトキと続き、その類音の「能登香」にかかる枕詞。「能登香の山」は、岡山県津山市の東方にある二子山とされます。上2句は結句の「紐解かず」を導く序詞で、「能登香」と「解かず」の類似の音を結びつけています。「誰がゆゑか」は、あなた以外の誰ゆえに。「君来ませるに」は、あなたがいらっしゃったのに。「紐解かず寝む」は、下紐を解かずに寝ようか、つまり共寝をしないだろうか、する、の意。能登香の山のほとりに住む女が、夫の通ってきた時に詠んだ形の歌で、この歌も人麻呂の興味から詠んだものとされます。
2425の「山科の木幡」は、京都府宇治市木幡。「徒歩ゆ吾が来し」は、徒歩で私は来た。「汝を念ひかね」は、汝を思うに堪えかねて。馬で来るほうが早く着けるのだが、馬の用意をする暇もまどろっこしくて、取るものも取りあえず、すぐに歩いてきた、と言っています。斎藤茂吉は、「女にむかっていう語として、親しみがあっていい」と評しています。一方、窪田空穂は、「誇張というよりもむしろ媚びて、機嫌取りのためにいっている」のが明らかであり、「普通の夫婦関係の歌とは思われない。木幡の里にいる魅力多い遊行婦を相手にいったもののようである」と述べています。木幡は、古くから遊行婦がいた地とされます。なお、別の解釈として、馬の足音によって露見するのを恐れて徒歩で来た、あるいは、馬で来てもし途中で馬がつまづきでもしたら引き返さなくてはならないので徒歩で来た、などとするものもあります。
『柿本人麻呂歌集』について
『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。
この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。
ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。
文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。