大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

宇治川の水泡さかまき行く水の・・・巻第11-2429~2431

訓読 >>>

2429
はしきやし逢はぬ子ゆゑにいたづらに宇治川の瀬に裳裾(もすそ)濡(ぬ)らしつ

2430
宇治川の水泡(みなあわ)さかまき行く水の事(こと)かへらずぞ思ひ染(そ)めてし

2431
鴨川(かもがは)の後瀬(のちせ)静(しづ)けく後(のち)も逢はむ妹(いも)には我(わ)れは今ならずとも

 

要旨 >>>

〈2429〉ああ愛しい、逢ってもくれないあの子ゆえに、甲斐もなく、宇治川の瀬で裳裾を濡らした。

〈2430〉宇治川が水泡を立てて逆巻いて流れ行くように、あの子を恋し始めた気持ちは戻しようがない。

〈2431〉鴨川の瀬が下流ではゆったりとした流れになるように、あとで彼女にはゆっくり逢おう。今すぐでなくとも。

 

鑑賞 >>>

 『柿本人麻呂歌集』から「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」3首。2429の「はしきやし」は、ああ愛しい。「裳」は、ふつう女の衣服のことですが、僧侶など一部の男も似た衣服を着け、裳と呼びました。しかしそう見るのは苦しいようで、単なる誤りか、あるいはコロモと訓むべきか、はたまた中国では裳は必ずしも女性の裳とされていないことから支障ないとする考えもあるようです。恋する女の許へ宇治川を徒歩で渡って行ったものの、逢えずにむなしく帰って来た男の愚痴の歌です。

 2430の「水泡さかまき行く水の」の「の」は、のように。上3句は「かへらず」を導く譬喩式序詞。「事かへらず」は、後戻りできない。窪田空穂は、「宇治川の辺りに住んでいる男の、その懸想した女が応じそうもなく、失望に終わろうとする時、我と我を励ましていった心のものである。初句より三句までは序詞の形になっているが、譬喩と異ならないもので、それが一首の重点ともなっている。昂奮した心と強い調べと相俟って、さわやかな歌となっている」と評しています。

 2431の「鴨川」は、京都市を流れる賀茂川とする説もありますが、京都府木津川市加茂町を流れる木津川の一部とされます。「後瀬」は、下流の瀬。「後瀬静けく」の原文「後瀬静」で、ノチセシヅケク、ノチセシヅケシと訓むものもあります。上2句は「後も」を導く同音反復式序詞。「今ならずとも」は、今でなくても。この地に住む男が、関係を結んだ女の周囲に妨害があって逢い難くなっている時に、女を慰めて贈った歌とされます。

 

 

 

相聞歌の表現方法

万葉集』における相聞歌の表現方法にはある程度の違いがあり、便宜的に3種類の分類がなされています。すなわち「正述心緒」「譬喩歌」「寄物陳思」の3種類の別で、このほかに男女の問と答の一対からなる「問答歌」があります。

正述心緒
「正(ただ)に心緒(おもひ)を述ぶる」、つまり何かに喩えたり託したりせず、直接に恋心を表白する方法。詩の六義(りくぎ)のうち、賦に相当します。

譬喩歌
物のみの表現に終始して、主題である恋心を背後に隠す方法。平安時代以後この分類名がみられなくなったのは、譬喩的表現が一般化したためとされます。

寄物陳思
「物に寄せて思ひを陳(の)ぶる」、すなわち「正述心緒」と「譬喩歌」の中間にあって、物に託しながら恋の思いを訴える形の歌。譬喩歌と著しい区別は認められない。

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引