訓読 >>>
4506
高円(たかまと)の野の上(うへ)の宮は荒れにけり立たしし君の御代(みよ)遠(とほ)そけば
4507
高円の峰(を)の上の宮は荒れぬとも立たしし君の御名(みな)忘れめや
4508
高円の野辺(のへ)延(は)ふ葛(くず)の末つひに千代(ちよ)に忘れむ我が大君(おほきみ)かも
4509
延(は)ふ葛(くず)の絶えず偲(しの)はむ大君(おほきみ)の見しし野辺(のへ)には標(しめ)結(ゆ)ふべしも
4510
大君(おほきみ)の継ぎて見すらし高円の野辺(のへ)見るごとに音のみし泣かゆ
要旨 >>>
〈4506〉高円の野の上の宮はすっかり荒れてしまった。ここにお立ちになった大君(聖武天皇)の御代から遠ざかってきたので。
〈4507〉高円山の上の宮は荒れてしまおうとも、立っておられた大君の御名を忘れようか、忘れはしない。
〈4508〉高円の野を延う葛がどこまでも延びて絶えないように、千年の後まで忘れられるような我が大君ではありません。
〈4509〉延びていく葛の蔓のように絶えることなくお慕いしていこう。大君がご覧になった野辺には標縄を張っておくべきだ。
〈4510〉大君が今も続いてご覧になっていらっしゃるらしい。高円の野辺を見るたびに泣けてきてしまう。
鑑賞 >>>
天平宝字2年(758)2月、中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)の邸宅での宴席で歌われた4496~4505の10首に続き、2年前に崩じた聖武天皇の高円の離宮処を偲んで詠んだ歌です。ここには大伴家持のほか、中臣清麻呂、大原今城真人(おほはらのいまきのまひと)などの「興に依り、高円の離宮処を思ひて作る歌」計5首が収められており、政争の激しいさなか、気心の合った者同士が聖武天皇の佳き時代を偲んでいるものです。彼らはみな聖武天皇を強く敬慕する人たちでしたが、時代はすでに藤原仲麻呂のものとなっています。
4506は、大伴家持の歌。「高円の峰の上の宮」とあるのは、離宮が高円山の頂上近いところにあったことが窺えます。「立たしし」は「立ちし」の敬語。「君」は、聖武天皇。「遠そけば」は「遠退けば」で、遠ざかれば。4507は、大原今城真人の歌。「忘れめや」の「や」は、反語。4508は、主人の中臣清麻呂の歌。上2句は、野を這う葛の末長く続く意で「末」を導く序詞。4509は、家持の歌。「延ふ葛の」は「絶えず」の枕詞。「見しし」は「見し」の敬語。「標結ふ」は、標縄を張ることで、その場所の所有を示すもの。4510は、甘南備伊香真人の歌。「継ぎて」は、続いて。「見すらし」の「らし」は、根拠に基づく推定。
これらの歌は、単に離宮の荒廃を悲しんだものではなく、かつての帝王を今もなお慕い仰ぎ見る思いと、その不幸な晩年に同情するとともに、現在の朝政の紊乱の有様を憤る気持ちが込められています。しかし、旧主を讃え崇めることは当今に対する批判にもつながり、いずれの歌もそう曲解されかねない内容になっています。それが影響したかどうかは定かではありませんが、宴の約10日後に勅令が出されました。その内容は、茲許とかく民間で集宴して政局を批判し、酔乱節を失い口論闘争する者がいるようだが、葬祭か薬用以外の飲酒は厳禁、違反者は五位以上で一年間の給与支払い停止、六位以下は解任に処すという厳しいものでした。ひょっとしたら、この日の集宴が政治的な意味を持つかのように誤解されて仲麻呂の耳に入ったのかもしれません。