訓読 >>>
2462
我妹子(わぎもこ)し我(わ)れを思はばまそ鏡(かがみ)照り出(い)づる月の影(かげ)に見え来(こ)ね
2463
ひさかたの天光(あまて)る月の隠(かく)りなば何になそへて妹(いも)を偲(しの)はむ
2464
若月(みかづき)の清(さや)にも見えず雲隠(くもがく)り見まくぞ欲(ほ)しきうたてこのころ
要旨 >>>
〈2462〉愛しい妻がこの私を思っていてくれるなら、空に照り輝く月のように、面影として浮かんできてほしい。
〈2463〉空に輝く月が隠れてしまったら、いったい何を妻になぞらえて懐かしんだらよいのだろう。
〈2464〉三日月がはっきり見えずに雲に隠れてしまうように、心行くまであの人の姿が見られないので、逢いたくてたまらない。更にこのごろは。
鑑賞 >>>
『柿本人麻呂歌集』から「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」3首。2462の「我妹子し」の「し」は、強意の副助詞。「まそ鏡」は、澄み切った鏡で「照り出づる月」の枕詞。「影に見え来ね」の「影」は、月の影(光)と妹の面影を掛けています。「見え来ね」の「ね」は、願望。旅にあって、月に対して妻を思っている歌とされます。
2463の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「なそへて」は、見立てて、なぞらえて。斎藤茂吉は、「恋している女を『天光る月』に見立て、それと融合している気持は、前の歌(2462)と同じく、単に抒情詩的だというのみでなく、その恋人の顔容から挙止に至るまで彷彿として見える如き感じのする歌である」と言っています。
2464の「若月の清にも見えず」は、三日月がはっきりとも見えず。「清に」は、視覚的にも聴覚的にもくっきりと明瞭なことを表す語。上3句は「見まく」を導く譬喩式序詞。「見まくぞ欲しき」の「みまく」は「見む」のク語法で名詞形。見たいことであるよ。「うたて」は、いっそう、ますますの意の副詞。窪田空穂は、「序詞が、譬喩だけではなく、事態の全部を負うているような歌である。しかし同時にそれが気分になっている。人麿 歌集の手法である」と述べています。男女どちらの歌とも取れます。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について