訓読 >>>
2465
我(わ)が背子(せこ)に吾(あ)が恋ひ居(を)れば吾(わ)が屋戸(やど)の草さへ思ひうらぶれにけり
2466
浅茅原(あさぢはら)小野に標(しめ)結(ゆ)ふ空言(むなごと)を如何(いか)なりと言ひて君をし待たむ
2467
路(みち)の辺(へ)の草深百合(くさふかゆり)の後(ゆり)もと言ふ妹(いも)が命(いのち)を我(わ)れ知らめやも
要旨 >>>
〈2465〉私の夫を恋しく待ち遠しく思っていると、家の庭の草さえも、思い悩んで萎れてしまいました。
〈2466〉浅茅原の野に標を張るような空しい言葉を、人にどう説明して、あなたを待っていたらいいのでしょう。
〈2467〉道端の草の中に咲く百合のように、いずれ後になどと言っているが、あの子の命を私が知り得ようか。
鑑賞 >>>
『柿本人麻呂歌集』から「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」3首。2465の「思ひうらぶれ」は、思い悩んで萎れる。ウラブルは、しょんぼりする、失意にうなだれる意の自動詞で、多くは人間の場合に用いられます。「けり」は、詠嘆。この歌について、上3句にワガを繰り返して頭韻をふみ、直線的な奔流の如き格調をなしているとの評もありますが、斎藤茂吉は、「『わが』というのを繰り返しているのは、あまり意識してやったのではなかろうと解釈したいのであるが、・・・故意に畳んで用いたのだとすると具合が悪い。日本語の味わいの能く分からぬ外国人などが日本の詩歌を云々するときに、先ずこういう頭韻などにばかり気を取られて賛美するのは未だ不徹底だからである。ただこの歌は、全体がしっとりと沈潜して歌い了せているのがいいのであって、『わが』を繰り返しているために特にいいのではない」と述べています。
2466の「浅茅原」は、茅が低く生えている原。「小野」の「小」は、接頭語。「標結ふ」は、他人の立ち入りを禁じるしるしとして縄を張ること。上2句は「空言」を導く序詞。掛かり方については諸説ありますが、それほど大切ではない浅茅原に標を引いたところで意味がないところから、偽りの比喩としての序詞であるとの見方があります。「空言」は、実の伴わない空しい言葉、誠意のない口先だけの約束。ここの空言がどのような内容だったかは明らかにされていませんが、窪田空穂は、「複雑な、屈折をもった気分を、単純に言いおおせた、巧みな歌」と評しています。
2467の「草深百合」は、草の茂みの中に咲いた百合。具体的にはヤマユリ、ササユリの類を指すと言われます。上2句は、後(のち)という意味の「後(ゆり)」を導く同音反復式序詞。「知らめやも」の「やも」は、反語。知っていようか、知りはしない。女に求婚して、いずれ後にと婉曲に拒まれた男が「どうして今では駄目なのか」と憤怒している歌です。窪田空穂は、「『路の辺の草深百合の』は、女の境遇と美しさを気分として感じさせる語で、『後』への続きも安らかである。上手な歌である」と述べています。
一人称の「わ」と「あ」
『万葉集』の歌の一人称の代名詞には、ワガ・ワレのようなワ系の語と、アガ・アレのようなア系の語があります。どのように使い分けされるかについて、たとえば、一人称が「恋」という名詞に続く場合は、その殆どがア系の語が用いられているとの指摘があります。上の3690の「我(あ)が恋ひ行かむ」がそうですし、他にも「我(あ)が恋まさる」「我(あ)が恋やまめ」「我(あ)が恋わたる」などの例があります。一般的あるいは複数的に用いられる場合は、ワ系であるのに対し、ア系は、単数的、孤独的である場合に用いられているとされます。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について