大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

天地の初めの時ゆ天の川・・・巻第10-2089~2091

訓読 >>>

2089
天地(あめつち)の 初めの時ゆ 天の川 い向ひ居りて 一年に ふたたび逢はぬ 妻恋ひに 物思ふ人 天の川 安の川原の あり通ふ 出(いで)の渡りに そほ舟の 艫(とも)にも舳(へ)にも 舟装(ふなよそ)ひ ま楫(かぢ)しじ貫(ぬ)き 旗すすき  本葉(もとは)もそよに 秋風の 吹きくる宵(よひ)に 天の川 白波しのぎ 落ちたぎつ 早瀬渡りて 若草の 妻を巻かむと 大船の 思ひ頼みて 漕ぎ来らむ その夫の子が あらたまの 年の緒(を)長く ひ来し 恋尽すらむ 七月の 七日の宵は 我れも悲しも

2090
高麗錦(こまにしき)紐(ひも)解きかはし天人(あめひと)の妻問(つまど)ふ宵(よひ)ぞ我(わ)れも偲(しの)はむ

2091
彦星(ひこほし)の川瀬を渡るさ小舟(をぶね)の得(え)行きて泊(は)てむ川津(かはづ)し思ほゆ

 

要旨 >>>

〈2089〉天地が初めて開けた大昔から、天の川に向き合って住み、一年に二度は逢えないで恋しく物思う人よ、天の川の安の川原の、通いなれた船出の渡に、朱塗りの船の後ろにも先にも船飾りをして、立派な楫を両舷に通し、旗すすきの根元から伸びる葉にもそよと秋風が吹いてくる夜に、天の川の白波を越え、落ちたぎる早瀬を渡り、若草のようにみずみずしい妻の手を枕に共寝しようと、大船のように頼みに思い漕いでくるその彦星が、長い間思ってきた恋を尽くす七月七日の夜は、なぜか私も悲しいよ。

〈2090〉高麗錦の紐を解き合って、天上の彦星が妻どいをして過ごす夜だ。この私も思いを馳せよう。

〈2091〉彦星の川瀬を渡る小舟が向こう岸に着き得て泊まる、その舟着き場はどんな所だろうと、思いを馳せる。

 

鑑賞 >>>

 七夕の歌。2089の「初めの時ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。「一年にふたたび逢はぬ」は、一年に二度とは逢わない。「安の川原」は、高天原にあるという安の川原。「あり通ふ」は、通い馴れた。「出の渡り」は、他に用例のない語で不詳ながら、「瀬」と同意で用いられたものか。「そほ舟」は、朱塗りの舟。「艫」は、船尾。「舳」は、船首。「舟装ひ」は、舟を装って。「ま楫」は、舟の両舷に付けた左右一対の櫂。「しじ貫き」は、たくさん取り付けて。「旗すすき」は、穂が旗のようになびいているススキ。「本葉」は、幹や茎の方にある葉。「そよに」は、そよそよと。「若草の」「大船の」「あらたまの」は、それぞれ「妻」「思ひ頼む」「年」の枕詞。「年の緒」の「緒」は、長く続く意で添えたもの。

 2090・2091は、反歌。2090の「高麗錦」は、高麗ふうの錦。高級品とされ、貴族が紐にしていました。「紐」は、衣の紐。ここでは、お互いに紐を解き合ったことが知られますが、『 万葉集』で多いのは、自然に下紐が解ける場合と、自ら解くことによって相手を呼び寄せようとする場合です。2091の「さ小舟」の「さ」は、接頭語。ただし「小舟」とあるのは、長歌の内容と矛盾するようです。「得行きて」は、行き着き得て。「川津」は、川の船着き場。

 

 

七夕の歌

 中国に生まれた「七夕伝説」が、いつごろ日本に伝来したかは不明ですが、上代の人々の心を強くとらえたらしく、『万葉集』に「七夕」と題する歌が133首収められています。それらを挙げると次のようになります。

巻第8
山上憶良 12首(1518~1529)
湯原王 2首(1544~1545)
市原王 1首(1546)
巻第9
間人宿祢 1首(1686)
藤原房前 2首(1764~1756)
巻第10
人麻呂歌集 38首(1996~2033)
作者未詳 60首(2034~2093)
巻第15
柿本人麻呂 1首(3611)
遣新羅使人 3首(3656~3658)
巻第17
大伴家持 1首(3900)
巻第18
大伴家持 3首(4125~4127)
巻第19
大伴家持 1首(4163)
巻第20
大伴家持 8首(4306~4313)

 このうち巻第10に収められる「七夕歌」について、『日本古典文学大系』の「各巻の解説」に、次のように書かれています。

―― 歌の制作年代は、明日香・藤原の時代から奈良時代に及ぶものと見られ、風流を楽しむ傾向の歌、繊細な感じの歌、類想、同型の表現、中国文化の影響などが相当量見出される点からして、当代知識階級の一番水準の作が主となっていると思われる。同巻のうちにも、他の巻にも、類想・類歌のしばしば見られるのはその為であろう。――

 また、巻第10所収の『柿本人麻呂歌集』による「七夕歌」には、牽牛と織女のほかに、二人の間を取り持つ使者「月人壮士」が登場しており、中国伝来のものとは違う、新たな「七夕」の物語をつくりあげようとしたことが窺えます。