大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

里遠み恋ひうらぶれぬまそ鏡・・・巻第11-2501~2503

訓読 >>>

2501
里(さと)遠(とほ)み恋ひうらぶれぬまそ鏡(かがみ)床(とこ)の辺(へ)去らず夢(いめ)に見えこそ

2502
まそ鏡(かがみ)手に取り持ちて朝(あさ)な朝(さ)な見れども君は飽くこともなし

2503
夕(ゆふ)されば床(とこ)の辺(へ)去らぬ黄楊枕(つげまくら)何しか汝(な)れが主(ぬし)待ち難(かた)き

 

要旨 >>>

〈2501〉あなたの里が遠いので、恋しさにすっかりしょげこんでいます。せめてこの手鏡のように、床のそばにいて夢に出てきてほしい。

〈2502〉手鏡を手に取って朝ごとに見るように、あの人を毎朝見ているのに見飽きることがありません。

〈2503〉夕方になるといつも隣の寝床にいる黄楊枕よ、その枕の主がなかなかやってこないのに、お前はどうしてそんなに辛抱強く待ち続けていられるの?

 

鑑賞 >>>

 『柿本人麻呂歌集』から「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」3首。2501の「里遠み」は、里が遠いので。「恋ひうらぶれぬ」は、恋しくてしょげている。「まそ鏡」は、澄んではっきり映る鏡のことで、まそ鏡のように床の近くを離れない意で「床の辺去らず」にかかる枕詞。「夢に見えこそ」の「こそ」は、願望の終助詞。斎藤茂吉は「『床の辺去らず』の句におもしろ味がある」と評しています。

 2502の「手に取り持ちて」は、手に取って用いて。上2句は「朝な朝な見る」を導く序詞。「朝な朝な」は、毎朝、朝々に。2633に「まそ鏡手に取り持ちて朝な朝な見む時さへや恋の繁けむ」という類歌があり、2502の歌をもとに後に作り変えた」ものと見られています。新婚後同居して間もない夫婦と見られる、若々しい歌です。

 2503の「夕されば」は、夕方になるといつも。「黄楊枕」は、黄楊の木で作った木枕。「何しか」は、どうして~なのか。「汝が主」は、枕の主人、つまり女が待ち焦がれる男のことを言っています。第4・5句の原文「射然汝主待困」で、ここは「射」を「何」の誤字とする説に従っていますが、そうではなく、イツシカキミヲマテバクルシモ、イツシカナレガヌシマチガタキなどと訓むものもあります。枕に向かって独り寝の寂しさを訴えるという形の恋歌は、男女がふだん別居して暮らした生活形態ならではの、古い日本の詩歌の伝統的な型の一つとなっています。

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引