訓読 >>>
3230
幣巾(みてぐら)を 奈良より出でて 水蓼(みつたで)の 穂積(ほづ)に至り 鳥網(となみ)張る 坂手(さかて)を過ぎ 石走(いはばし)る 神奈備山(かむなびやま)に 朝宮(あさみや)に 仕へ奉(まつ)りて 吉野へと 入ります見れば 古(いにしへ)思ほゆ
3231
月も日も変はらひぬとも久(ひさ)に経(ふ)る三諸(みもろ)の山の離宮所(とつみやところ)
要旨 >>>
〈3230〉幣巾(ぬさ)を並べる奈良の都を出発し、水蓼の穂の出る穂積の地に至り、鳥を捕らえる網を張る坂手を過ぎ、川が石走り流れる神奈備山で、朝宮に仕えまつり、吉野へとお入りになるのを見ると、過ぎ去った昔がしのばれる。
〈3231〉月日は移り変わっても、幾久しく変わることのない、三諸の山の離宮の地よ。
鑑賞 >>>
吉野の離宮への行幸に供奉した官人の歌。3230の「幣巾を」は、神前に幣帛を並べる意で「奈良」にかかる枕詞。「水蓼の」は、水辺に自生する川蓼が穂を出す意で、「穂積」にかかる枕詞。「穂積」は、天理市前栽町付近。同市新泉町、奈良市東九条町などとする説もあります。「鳥網張る」は、鳥網を張るのに鳥の捕れやすい坂を選ぶことから「坂手」にかかる枕詞。「坂手」は、奈良県田原本町阪手付近。平城京からの行程が、これら枕詞を冠した地名を並べる道行きの様式で表現されています。「石走る」はここでは「神奈備山」の枕詞となっており、付近を流れる明日香川が意識されています。「神奈備山」は、神が天から降りてくる山。ここでは「雷丘」とされます。「朝宮に仕へ奉りて」は、朝の宮殿に奉仕して。「古思ほゆ」の「古」は、天武・持統朝を指すと見られています。さらに限定する考えもあり、殊更に「朝宮に仕へ奉りて吉野へと入ります」と言っているのは、他の地から明日香へ来て一泊した翌朝を意味し、それは天武天皇の大海人皇子時代の吉野入りを想起したものではないかといいます。
3231の「月も日も変はらひぬとも久に経る」の原文「月日攝友久流経」または「月日攝友久経流」で、ツキヒハカハラヒヌトモ、ツキヒハユケドヒサニナガラフルなどと訓むものもあります。「三諸の山」は、「神奈備山」と同じく神が降臨して宿る山。

行幸について
万葉の時代に行われた行幸のうち、天平15年(743年)に聖武天皇が恭仁宮から紫香楽宮に行幸した際に、五位以上が28名、六位以下が2370名随行(当時の用語では「陪従」と呼ぶ)したと『続日本紀』天平15年4月辛卯条に記されています。また、奈良~平安時代にかけての他の行幸でも、1000名以上の随行が確認できるものが複数確認できるため、天皇の行幸となると、2000名ほどの陪従者が発生したのではないかと考えられています。
行幸に際しては、律令官人たちは、天皇に随従する「陪従」と、宮都を守護する「留守」を務めるものとされ、特に前者は功労として位階の授与が与えられる場合があったといいます。また、公式令には中国の例に倣って天皇の行幸時には皇太子が監国を務めて留守を守ることを前提とした条文がありますが、史書で確認できる行幸では皇太子が陪従している場合がほとんどで、皇親や議政官が「留守官」に任じられて天皇の留守中の宮都の管理を行っていたようです。また『延喜式』太政官式には、天皇が出発する数十日前からの行幸の準備について細かく規定が定められています。
『延喜式』とは
延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された律令施行細則(格・式)をまとめた法典です。醍醐天皇の命により平安京で編纂が開始され、延長5年(927年)に完成、康保4年(967年)から施行されました。過去の『弘仁式(こうにんしき)』や『貞観式(じょうがんしき)』に続く「三代格式(さんだいきゃくしき)」の一つであり、ほぼ完全な形で現存する唯一の格式として日本古代史の研究に欠かせない重要資料です。
全50巻(約3,300条)からなり、巻1~10が神祇官関係の規定。全国各地の重要な神社を網羅した「延喜式神名帳(じんみょうちょう)」が収録されており、ここに記載された3,132座の神社は「式内社(しきないしゃ)」と呼ばれます。古代の神社制度や信仰を知る第一級の史料となっています。
巻11~40が太政官・八省関係、巻41~50がその他の宮司に関する規定。儀式・年中行事の次第、薬草や物産の納入規定、官人の給与・税制、外国使節の待遇(客講式)に至るまで詳細に記録されています。さらに当時の食文化(醤漬けなどの記述)や馬の生産・管理といった社会の実態を知る手がかりも含まれています。また、祝詞(のりと)や民俗文化に関する記述も多く含まれており、古代の言語や思想、風俗の研究においても欠かせない文献です。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について
