大和の国のこころ、万葉のこころ

『万葉集』の鑑賞blogです。全歌について、訓読文・現代語訳・解説文を載せています。

橘は常花にもが霍公鳥・・・巻第17-3909~3913

訓読 >>>

3909
橘(たちばな)は常花(とこはな)にもが霍公鳥(ほととぎす)住むと来(き)鳴かば聞かぬ日無けむ

3910
玉に貫(ぬ)く楝(あふち)を家に植ゑたらば山霍公鳥(やまほととぎす)離(か)れず来(こ)むかも

3911
あしひきの山辺に居(を)れば霍公鳥(ほととぎす)木(こ)の間(ま)立ち潜(く)き鳴かぬ日はなし

3912
霍公鳥(ほととぎす)何の心ぞ橘(たちばな)の玉貫く月し来(き)鳴き響(とよ)むる

3913
霍公鳥(ほととぎす)楝(あふち)の枝に行きて居(ゐ)ば花は散らむな玉と見るまで

 

要旨 >>>

〈3909〉橘は、年中咲く花であったらなあ。そうなれば、ホトトギスが住みつこうとやって来て、いつもその鳴き声が聞けるのに。

〈3910〉花を飾って薬玉(くすだま)にする楝を家の庭に植えたら、山のホトトギスが絶えることなくやって来るだろうか。

〈3911〉山の近くに暮らしていると、ホトトギスが木々の間をくぐり抜けて鳴かない日がない。

〈3912〉ホトトギスは何を思って、橘の実を薬玉として貫く五月にだけやってきて鳴き立てるのだろう。

〈3913〉ホトトギスが楝の枝に飛んできてとまるようになったら、その花は散ってしまうだろう、玉と見るばかりに。

 

鑑賞 >>>

 3909~3910は、大伴書持の「霍公鳥を詠む歌」2首で、天平13年(741年)4月2日、奈良の宅から恭仁京にいる兄の家持に贈った歌。3909の「常花」は、常(とこ)しえの花、つまりいつまでも咲き続ける花。常夏、常宮、常闇などの語はありますが、常花の例はここだけです。「もが」は、願望の助詞。「住むと来鳴かば」は、住処としてやって来て鳴いたならば「聞かぬ日無けむ」の「無け」は、形容詞「無し」の未然形。「む」は、推量の助動詞。その声を聞かない日などないだろうに、の意。

 3910の「玉に貫く」は、花に糸を通して邪気払いの薬玉を作ること。「楝」は、栴檀(せんだん)の古名で、初夏に淡い紫色の花が咲きます。ここの「玉」は、その花の蕾を指しています。「山霍公鳥」は、山に棲むホトトギス。「山」をつけることで、人里離れた深い山から飛来する風情を強調しています。「離れず」は、絶えず、間をあけず。いずれの歌も、ホトトギスを永久に引き留めたいという思いを歌っており、ホトトギスの好きな兄への思いが込められています。

 3911~3913は、翌4月3日に兄の家持が送った返事の歌。題詞に「橙橘(とうきつ)初めて咲き、霍公鳥(ほととぎす)飜(かけ)り嚶(な)く。此の時候に対(むか)ひ、詎(あに)志を暢(の)べざらむ。因りて三首の短歌を作りて、以(もち)て鬱結(うつけつ)の緒(こころ)を散らすのみ」とあり、気が沈み、晴れ晴れとしない心境が込められています。「橙橘」はミカン類の常緑高木のことで、書持の歌の「橘」に応じたもの。この年の4月3日は、太陽暦の5月21日に当たります。

 3911の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山辺」は、家持の恭仁京の寓居のあった地。「立ち潜き」の「立ち」は接頭語で、「潜き」は狭い隙間をくぐる意。家持の歌にしか見られない表現で、ホトトギスが翼をほとんど動かさずに木の枝の間をすいすいと抜けているところを捉えた表現とされます。家持はまたウグイスについては、これも彼独自の「繁み飛び潜(く)く」と歌っています(巻第17-3971)。ウグイスは翼を広げて羽ばたきながら木の間をくぐるので、その違いを細かく観察した繊細な表現だと評されています。

 3912の「何の心ぞ」は、何を思って、どういう気持からなのか。「橘の玉貫く月し」の「し」は強意の副助詞で、橘の花を薬玉として緒に貫く月にだけ、の意。「鳴き響むる」の「響むる」は「響む」の連体形で、上の「ぞ」の係り結び。3913の「花は散らむな」の「な」は、詠嘆の終助詞。「玉と見るまで」は、玉と見るばかりに、玉の散るのを見るがごときまでに。3912・3913は、書持の「橘」と「楝」をそれぞれ受けて、ホトトギスの、薬玉を作る5月のみを選んで鳴く風流と、楝の花を玉のように散らす美しさとを歌っています。

 これらの二人の往復書簡について、詩人の大岡信は、「ここで注意すべきは、二人の実生活の細部や現在の心境、家族の近況その他、現在の暮らしぶりを示すものは、何一つ歌われていないという点だ」と述べています。すなわちここには、「実生活の中に風流韻事を抱え込む生き方、あるいは風流韻事に傾倒することそのものに実生活の手ごたえをしっかり感じ取る生き方があったのだ」と。別の言い方で言えば、「上代の日本における美的生活者に他ならなかった」。

 この時24歳の家持は、まだ五位ではないものの内舎人として聖武天皇に従い、恭仁京に勤務していました。伊勢行幸に出発以来供奉し続けており、もう半年も平城京に帰っていないことになります。恭仁京の造営はこの年の前の12月から始められ、年が替わった閏3月には、五位以上の官人が奈良に居住することが禁じられ、恭仁京への移住が命じられました。8月には奈良の東・西市を恭仁京へ移すなど新都の整備が進み、11月になって天皇は新都を「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」と名付けました。なお、この年7月の人事で、右大臣橘諸兄の子、従五位橘奈良麻呂が大学頭(だいがくのかみ)に抜擢され、大伴氏では、8月に大伴御中(三中)が刑部少輔(ぎょうぶのしょうふ)に、大伴百代が美作守(みまさかのかみ)、12月に大伴稲公が因幡守へと、国守クラスの起用が相次ぎました。

 

 

『万葉集』と霍公鳥

 『万葉集』集において霍公鳥(ほととぎす)は、植物の「橘(たちばな)」や「卯の花」とならび、夏の訪れを告げる最も重要な風物詩として数多く詠まれています。全4,500首を超える『万葉集』の中で、霍公鳥が登場する歌は150首以上にのぼり、鳥の部類では群を抜いて最多を誇ります。万葉人にとって霍公鳥は、単なる季節の鳥ということにとどまらず、多様な情念や美意識を託す存在でした。

  1. 初声を待つ情熱
    夏の訪れとともに最初に鳴く声(初声)を聞くことは、万葉人にとって大きな喜びでした。夜を徹して声を待ったり、声を聞くために山へ出かけたりする熱心な歌が数多く残されています。
  2. 橘・卯の花との美的な調和
    霍公鳥は、初夏に咲く花と強く結びつけて詠まれます。霍公鳥は、橘の花の香りを追って飛んでくるとされ、また、白く咲き誇る卯の花の垣根を飛ぶ姿は、初夏の初々しい景観として好まれました。
  3. 孤独・哀切と物思ひ
    霍公鳥の鳴き声は、どこか寂しげで切ない響きとして捉えられました。「夜鳴く鳥」としての側面もあり、独り寝の寂しさや、旅先での郷愁、物思いに沈む心に寄り添う存在としても詠まれています。

こころ(心)~『万葉語誌』から

 現代の私たちにとって、ココロはすでに自明なものとして存在しているのかもしれない。手近な辞書を見ると、ココロとは、人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの、またその働きなどと説明されている。だが、古代のココロには相当に深い奥行きがある。古代のココロを探る場合、類似の概念であるタマ(魂)との関係を、どう把握するかが大きな問題となる。

 魂はそれぞれの個体に宿る生命力の本質とされるものをいう。魂または個体にとって、本来的な他者として存在した。魂は容器としての身体に宿り、時としてそこから遊離あるいは分離することができるとされた。魂が身体から完全に分離すると死を招くことになる。

 一方、ココロはどのようなものとされたのか。魂とは違い、ココロは個体に内在する何ものかであると考えられた。むしろ、外界との関係において初めて知覚されるものがココロだった。「心」に接続する枕詞に「群肝(むらきも)の」「肝(きも)向ふ」がある。これは、どうやら、心臓の鼓動を心の動きとして知覚したところに生まれた枕詞であるらしい。

『万葉集』掲載歌の索引

大伴家持の歌(索引)