大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

織女の袖つぐ宵の曉は・・・巻第8-1544~1545

訓読 >>>

1544
牽牛(ひこほし)の思ひますらむ心より見る我(われ)苦(くる)し夜(よ)の更(ふ)けゆけば

1545
織女(たなばた)の袖(そで)つぐ宵(よひ)の暁(あかとき)は川瀬の鶴(たづ)は鳴かずともよし

 

要旨 >>>

〈1544〉彦星が別れを惜しんでおられる心情もさりながら、地上で見ている私の方が心苦しくなる。年に一度の逢瀬の夜が更けてゆくので。

〈1545〉織女が彦星と袖を重ねて一夜を共にした宵の暁ばかりは、川瀬の鶴よ、暁を告げて鳴かなくともよい。

 

鑑賞 >>>

 湯原王(ゆはらのおおきみ)の七夕(しちせき)の歌2首。1首目で牽牛を、2首目で織女を、第三者の立場から詠んでいます。1544の「思ひますらむ」の「ます」は敬語、「らむ」は現在推量の、いずれも助動詞。「見る我苦し」は、地上で見ている自分の方が心苦しい。

 1545の「袖つぐ」は、衣の袖と袖を重ねる意で、共寝の婉曲的表現。「宵」と「暁」は、原文では「三更」「五更」と書かれており、「更」というのは上代の夜の時間をあらわす語で、今の2時間にあたります。初更は午後8時、二更は10時、三更は12時、四更は午前2時、五更は4時のことです。「川瀬」は、天の川の川瀬。「鳴かずともよし」は、鶴が鳴けば、別れねばならない夜明けの時なので、鳴くなということを柔らげて言ったもの。逢瀬の時間が少しでも長くあってほしいと祈った歌です。

 湯原王は、天智天皇の孫、志貴皇子の子で、兄弟に白壁王(光仁天皇)・春日王海上女王らがいます。天平前期の代表的な歌人の一人で、父の端正で透明感のある作風をそのまま継承し、またいっそう優美で繊細であると評価されており、家持に与えた影響も少なくないといわれます。兄弟の白壁王が聖武天皇の皇女(井上内親王)を妻として位階を進め、即位の約1年半後には、皇后や皇太子を廃して獄死させているのと比較すると、王は、人間らしい風雅の道を選んだらしくあります(本心や才能を隠しつつ政争から逃れ、一生無位だったともいわれます)。生没年未詳。『万葉集』には19首。

 

 

『万葉集』掲載歌の索引

湯原王の歌(索引)