大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

布勢の海の沖つ白波・・・巻第17-3991~3992

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3991
もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)の 思ふどち 心(こころ)遣(や)らむと 馬(うま)並(な)めて うちくちぶりの 白波の 荒磯(ありそ)に寄する 渋谿(しぶたに)の 崎(さき)た廻(もとほ)り 松田江(まつだえ)の 長浜(ながはま)過ぎて 宇奈比川(うなひがは) 清き瀬ごとに 鵜川(うかは)立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽(あ)かにと 布勢(ふせ)海に 船浮け据(す)ゑて 沖辺(おきへ)漕(こ)ぎ 辺(へ)に漕ぎ見れば 渚(なぎさ)には あぢ群(むら)騒(さわ)き 島廻(しまみ)には 木末(こぬれ)花咲き ここばくも 見(み)のさやけきか 玉くしげ 二上山(ふたがみやま)に 延(は)ふ蔦(つた)の 行きは別れず あり通(がよ)ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと

3992
布勢(ふせ)の海の沖つ白波あり通(がよ)ひいや年のはに見つつ偲(しの)はむ

 

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〈3991〉多くの官人たちが、仲間同志で気晴らしにと、馬を並べて、うちくちぶりの、白波が荒磯に打ち寄せる渋谿の崎をぐりと廻り、松田江の長い浜を通り過ぎて、宇奈比川の清らかな瀬ごとに鵜飼が行われており、こんなふうにあちこち見て回ったけれど、それでもまだ物足りないと、布勢の海に舟を浮かべ、沖に出たり、岸辺に近寄ったりして見渡すと、波打ち際にはアジガモの群れが騒ぎ立て、島陰には木々の梢いっぱいに花が咲いていて、ここの風景はこんなにも爽やかだったのか。二上山に生え延びる蔦のように、一同が別れることなく、来る年も来る年も、気心の合った仲間同士、こうやって遊びたいものよ、いま眼前にして愛でているように。

〈3992〉布勢の海の沖に立つ白波がやまないように、ずっと通い続けて、来る年も来る年もこの眺めを愛でよう。

 

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 天平19年4月、大伴家持が、布勢(ふせ)の水海(みずうみ)に遊覧した時の歌。「布勢の水海」は、富山県氷見市の南方にあった湖。「もののふ」は、朝廷に仕える文武百官で、「八十伴の男」の枕詞。「八十伴の男」は、多くの役人。ここでは越中国府の役人。「思ふどち」は、親しい仲間同士。「心遣る」は、気を晴らす。「うちくちぶりの」は、語義未詳。「渋谿の崎」は、高岡市渋谷。「た廻り」は、行ったり来たりする。「松田江の長浜」は、高岡市から氷見市にかけての海岸の砂浜。「宇奈比川」は、氷見市北方を流れる宇波川。「鵜川立つ」は、鵜飼をする。「そこも飽かにと」は、それでもまだ十分でないと。「木末」は、梢、枝先。「ここばく」は、たいそう。「二上山」は、高岡市北部の山。「年のはに」は、毎年。

 

立山に降り置ける雪の常夏に・・・巻第17-4003~4005

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4003
朝日さし そがひに見ゆる 神(かむ)ながら 御名(みな)に帯(お)ばせる 白雲(しらくも)の 千重(しへ)を押し分け 天(あま)そそり 高き立山(たちやま) 冬夏と 別(わ)くこともなく 白たへに 雪は降り置きて 古(いにしへ)ゆ あり来(き)にければ こごしかも 岩の神(かむ)さび たまきはる 幾代(いくよ)経(へ)にけむ 立ちて居(ゐ)て 見れども異(あや)し 嶺(みね)高(だか)み 谷を深みと 落ち激(たぎ)つ 清き河内(かふち)に 朝去らず 霧(きり)立ち渡り 夕されば 雲居(くもゐ)たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代(よろづよ)に 言ひ継(つ)ぎ行(ゆ)かむ 川し絶えずは

4004
立山に降り置ける雪の常夏(とこなつ)に消(け)ずてわたるは神(かむ)ながらとぞ

4005
落ちたぎつ片貝川(かたかひがは)の絶えぬごと今見る人もやまず通はむ

 

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〈4003〉朝日が背後から射し、神々しいその名のままに、白雲を幾重にも押し分けて天にそびえ立つ立山よ。冬も夏も絶えることなく、いつも真っ白な雪が降り積もり、古く遠い御代からそのままの姿であり続けてきたものだから、凝り固まった岩々は神々しく、幾代を経てきたことであろう。立って見ても座って眺め続けていても、その神々しさは計り知れない。峰が高く谷が深いので、落ちたぎる、清らかな谷あいの流れには、朝ごとに霧が立ちわたり、夕方になると雲が一面にたなびく。その雲のように心畏れつつ、その霧のように思いをこめつつ、流れる水の音の清らかさをそのままに、幾代にもわたって語り継いでゆこう。この川が絶えない限り。

〈4004〉立山に降り積もった雪が、夏の盛りにも消えずに残り続けるのは、神の御心のままでいらっしゃるからこそだ。

〈4005〉滝となって落ちたぎる片貝川が絶えることがないように、今見ている人も、この先ずっとここに通い続けるだろう。

 

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 大伴池主が、大伴家持長歌立山の賦」(4000)に和した、天平19年(747年)4月28日の作。4003の「そがひ」は、背後。「天そそり」は、天にそびえて。「古ゆ」の「ゆ」は、~から。「こごし」は、岩がごつごつと重なり。「神さぶ」は、神々しい。「たまきはる」は「幾代」の枕詞。「異し」は、霊妙だ。4005の「片貝川」は、富山県のおもに魚津市を流れる川。

 この歌について、窪田空穂は次のように評しています。「家持の歌は、細くはあるが滑らかさを帯びていたが、池主は反対に、太くはあるが騒がしくて、肝腎の統一感を持ち得ない点では、むしろ劣っている。思うに漢詩の影響を受けすぎ、部分的に、秀句を得ようとすることに心を奪われ、全体の統一をおろそかにしたためと思われる。構成が確かで、その連続も自然であるのに、感味の乏しいのはそのためと思われる」

 大伴池主(おおとものいけぬし)は大伴家持の同族で、生没年不詳ながら、天平18年(746年)ころ、越中守だった家持の配下にあり、家持との間に交わした歌を多く残しています。後に越中掾(じょう:国司の第3等官)に転じ、さらに中央官として都に帰っています。記録の上では、家持との交流は20年に及び、さらに少年期にまで遡れば、2人は30年来の知己だったのではないかともいわれます。しかし、天平勝宝9年(757年)の橘奈良麻呂の変に加わって捕縛され、その後の消息が分からなくなっています。『万葉集』には29首の歌を残しており、勅撰歌人として『新勅撰和歌集』にも1首入集。漢詩もよくし、その才能は家持を上回っていたともいわれます。

 

玉藻刈る沖辺は漕がじ・・・巻第1-72

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玉藻(たまも)刈る沖辺(おきへ)は漕(こ)がじ敷栲(しきたへ)の枕のあたり忘れかねつも

 

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海女たちが玉藻を刈っている沖のあたりには舟を漕いでいくまい。昨夜旅の宿で枕を共にした女のことが、忘れられないから。

 

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 藤原宇合(ふじわらのうまかい)の歌。藤原宇合不比等の3男で、藤原4家の一つである「式家」の始祖にあたります。若いころは「馬養」という名前でしたが、後に「宇合」の字に改めています。霊亀3年(717年)に遣唐副使として多治比県守 (たじひのあがたもり) らと渡唐。帰国後、常陸守を経て、征夷持節大使として陸奥蝦夷 (えみし) 征討に従事、のち畿内副惣管、西海道節度使となり、大宰帥 (だざいのそち) を兼ねましたが、天平9年(737年)、都で大流行した疫病にかかり44歳で没しました。正三位参議で終わりましたが、長く生きていれば当然、納言・大臣になれたはずの人です。『万葉集』には6首の歌が載っています。
 
 この歌は、慶雲3年(706年)、文武天皇難波宮行幸の際に作った歌で、宇合はこの時まだ13歳です。旅の宿であてがわれた女への情愛の気持ちを初々しく詠んでいます。「玉藻刈る」は「沖」の枕詞。「敷栲の」は「枕」の枕詞。「枕」は、昨夜共にした女の枕をいっています。独詠というより、舟遊びをしていて、親しい部下あたりから沖の方へ漕ぎ出しましょうかと問われ、答えた歌のようです。

 

しかとあらぬ五百代小田を・・・巻第8-1592~1593

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1592
しかとあらぬ五百代(いほしろ)小田(をだ)を刈り乱り田廬(たぶせ)に居(を)れば都し思ほゆ

1593
隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山は色づきぬ時雨(しぐれ)の雨は降りにけらしも

 

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〈1592〉わずかばかりの五百代の田を、慣れない手つきでうまく刈れずに番小屋にいると、都のことが思い出される。

〈1593〉泊瀬の山は色づいてきたところです。山ではもう時雨が降ったのでしょうね。

 

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 天平11年(739年)9月、大伴坂上郎女が、竹田の庄で作った歌2首。「竹田の庄」は、大伴氏が有していた荘園の一つで、奈良県橿原市東竹田町、耳成山の北東の地にあったとされます。そこに行って自ら稲刈りをしたという歌です。実際に自身が稲刈りしたかどうかは分かりませんが、使用している農民の監督方々、番小屋に寝泊りしたのは事実のようです。

 1592の「しかとあらぬ」は、さほどでもない、たいしたことない。「五百代」は、田の面積を表しており、1町(約1ヘクタール)の広さ。貴族の荘園としては確かに広くありませんが、あるいは郎女の謙遜かもしれません。「刈り乱り」は、刈り散らして。「田廬」は、番小屋のこと。1593の「隠口の」は「泊瀬」の枕詞。「泊瀬の山」は、竹田の庄から東に見える三輪山や巻向山。

 

東歌(34)・・・巻第14-3544

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阿須可川(あすかがは)下(した)濁(にご)れるを知らずして背(せ)ななと二人さ寝(ね)て悔しも

 

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阿須可川の底が濁っていること、そう、心が濁っているのを知らずに、あんな人と寝てしまって、なんて悔しい。

 

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 女の歌。「阿須可川」は、大和の明日香川か東国の川か未詳。「下濁れる」は、男が不誠実だった喩え。「背なな」は、女性から男性を親しんでいう語。「背な」の「な」がすでに親愛の接尾語なのに、語調を重んじて「な」を重ねています。「悔しも」の「も」は詠嘆の終助詞。相手の内面をよく知らないまま関係を持ってしまったことを後悔している歌です。

 

標結ひて我が定めてし・・・巻第3-394

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標(しめ)結(ゆ)ひて我(わ)が定めてし住吉(すみのえ)の浜の小松は後(のち)も我(わ)が松

 

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標を張って我がものと定めた住吉の浜の小松は、後もずっと私の松なのだ。

 

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 余明軍(よのみょうぐん)は、百済の王族系の人。帰化して大伴旅人の資人(つかいびと)となり、旅人が亡くなった時に詠んだ歌(巻第3-454~458)を残しています。「資人」は、高位の人に公に給される従者のことで、に主人の警固や雑役に従事しました。

 「標」は、自分の所有であることを示す印。「住吉」は、大阪市住吉区。「小松」の「小」は、小さい意味ではなく、親しんで添えた語。松を女に喩えており、住吉の遊行女婦を指しているとみられます。「標結ひて我が定めてし」は、その女と契りを結んだことの比喩。「後も我が松」といって、愛する女を独り占めしたい男の心情を詠っています。

 この歌の2句目の原文は「我定義之」で、「義之」を「てし」と訓みますが、長らく訓が定まらず、これを解読したのは、江戸時代の国文学者・本居宣長です。宣長は、まずこれを中国東晋の「王羲之(おうぎし)」の「羲之(義之)」と考えました。王羲之は政治家であるとともに書家として有名だった人です。宣長は、当時、書家を「手師(てし)」と呼んだことに思い至り、「義之」を「てし」と読み解いたのです。『万葉集』ができてから実に千年も後のことでした。

 

高御座天の日継と・・・巻第18-4098~4100

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4098
高御座(たかみくら) 天(あま)の日継(ひつぎ)と 天(あめ)の下(した) 知らしめしける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 畏(かしこ)くも 始めたまひて 貴(たふと)くも 定めたまへる み吉野の この大宮に あり通(がよ)ひ 見(め)し給(たま)ふらし もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)も 己(おの)が負(お)へる 己(おの)が名(な)負ひて 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに この川の 絶(た)ゆることなく この山の いや継(つ)ぎ継ぎに かくしこそ 仕(つか)へ奉(まつ)らめ いや遠長(とほなが)に

4099
いにしへを思ほすらしも我(わ)ご大君(おほきみ)吉野の宮をあり通(がよ)ひ見(め)す

4100
もののふの八十氏人(やそうぢびと)も吉野川(よしのがは)絶ゆることなく仕(つか)へつつ見(み)む

 

要旨 >>>

〈4098〉高い御位にいます、日の神の後継ぎとして、天下を治めてこられた古の天皇、その神の命が、恐れ多くもお始めになり、尊くもお定めになられた、吉野のこの大宮、そんな大宮だと、我が大君はここに通い続けられ、風景をご覧になられる。もろもろの官人たちも、自分たちが負っている家名を背に、大君の仰せのままに、この川の絶えることがないように、この山が幾重にも重なり続いているように、次々とお仕え申し上げよう。いつまでもずっと。

〈4099〉遠い昔を思っておいでのことだろうか。わが大君は吉野の宮に通っておいでになっては、ここの風景をご覧になっていらっしゃる。

〈4100〉もろもろの氏の名を負い持つわれら官人も、吉野川が絶えることがないように、いつまでもお仕えしつつ見ようではないか。

 

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 大伴家持の歌。題詞には、天皇が吉野の離宮行幸されるときのために、あらかじめ用意して作った歌とあります。天皇聖武天皇

 4098のの「高御座」は、天皇の地位を象徴する八角造りの御座。「天の日継」は、天照大御神の系統を受け継ぐこと、天皇の位。「知らしめす」は、お治めになる。「皇祖の神の命」は、天皇。「もののふ」は、廷臣。「八十伴の男」は、多くの役人。「任け」は、任命。「まにまに」は、~のままに。4099の「いにしへ」は、天武天皇持統天皇がたびたび吉野を訪れていた時代のこと。「見す」は「見る」の尊敬語。4100の「八十氏人」は、多くの氏の人。