大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

天智天皇崩御を悼む歌・・・巻第2-155

訓読 >>>

やすみしし わご大君(おほきみ)の 恐(かしこ)きや 御陵(みはか)仕(つか)ふる 山科(やましな)の 鏡の山に 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 昼はも 日のことごと 音(ね)のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ

 

要旨 >>>

恐れ多くも我が大君の御陵にお仕えする、その山科の鏡の山で、夜は夜どおし、昼は日中ずっと、声をあげて泣き続けてばかりいた大宮人たちは、今はもう散り散りに去っていく。

 

鑑賞 >>>

 山科の天智天皇御陵に奉仕していた大宮人たちが、その期間を終えて退散するときに、額田王が作った歌。もっとも山科陵の造営は翌年の壬申の乱で遅れたため、これは仮の埋葬だったかもしれません。額田王も、その奉仕の中に加わっていたものとみえます。「やすみしし」は、原文の「八隅知之」の表記から、八方を領有し治めていらっしゃる意。「恐きや」は、申すも恐れ多い。「鏡の山」は、京都市山科区にある御陵の北側の山。「ことごと」は、ことごとく。「ももしきの」は「大宮人」の枕詞。「大宮人」は、宮中に仕える役人。

 公的な儀礼の節目における歌であるため、事柄を述べることが主になり、ここでは「大宮人は去き別れなむ」だけが必要な事柄になっています。とはいえ、それまで天智、天武両帝の間にあって複雑な事情が身辺に錯綜した額田王にとって、一段落がついて、かえって様々な回想が胸中に去来したことでしょう。かつて若き天智と行動を共にし、軍令のままに出帆の歌(巻第1-8)を高らかに歌い上げたにもかかわらず、その挽歌を詠むことの無常感も大きかったのではないでしょうか。この歌からは、悲しみと虚脱感に打ちひしがれている様が浮かび上がってきます。窪田空穂はこの歌について、「語がきわめて少なく、また間(ま)がきわめて静かなのは、その悲哀の情をあらわすに適切なものである。この時宜に適させているところに手腕がうかがわれる」と述べています。