訓読 >>>
我が背子が着(け)る衣(きぬ)薄し佐保風(さほかぜ)はいたくな吹きそ家に至るまで
要旨 >>>
私のあの人の着ている衣は薄いので、佐保の風はきつく吹かないでください、家にあの人が帰りつくまでは。
鑑賞 >>>
大伴坂上郎女の家を、甥の家持が訪ねてきました。帰り際に、家持にあたえた歌がこの歌です。まるで一夜を共にした恋人を送り出す風情で、「我が背子」は、一般には「わたしの夫」とか「わたしの恋人」ということになりますが、あえてユーモラスに表現したのでしょうか。郎女の、甥の身を慈しみ労わるやさしさが滲み出ています。この時の家持は15、6歳です。
この当時に坂上郎女が住んでいたのは、大伴旅人の父、安麻呂の代以来の「佐保大納言卿」の家、つまり本邸です。大宰府から帰京後、天平3年(731年)7月に異母兄の旅人が亡くなって後は、坂上郎女が坂上里から移り住み、ここを主な活動の場とするようになっていました。また、この家には、安麻呂の妻で坂上郎女の母でもある大刀自(おおとじ:老主婦)の石川郎女も住んでいました。
一方、家持は、父旅人の喪明けとなった天平4年(732年)7月以降に、大伴家の所有する別宅に移り住んだとみられています。佐保の家の西の方角にあったので、「西宅」とも呼ばれます。後の天平11年(739年)6月に、家持が亡くなった妾を偲んだ歌(巻第3-462ほか)を詠んでいますが、妾や子らと住んでいたのは、この別宅(西宅)だったとされます。
「佐保風」は、佐保に吹く風という意味で、明日香風、泊瀬風など、同じような言い方の語が他にあります。「佐保」は、平城京の北の佐保川上流の一帯で、ここに大伴氏の邸宅がありました。「な~そ」は、禁止を表現する語。