大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

ゆめよ我が背子我が名告らすな・・・巻第4-590~592

訓読 >>>

590
あらたまの年の経(へ)ぬれば今しはとゆめよ我(わ)が背子我(わ)が名(な)告(の)らすな

591
我(わ)が思ひを人に知るれや玉櫛笥(たまくしげ)開(ひら)きあけつと夢(いめ)にし見ゆる

592
闇(やみ)の夜(よ)に鳴くなる鶴(たづ)の外(よそ)のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに

 

要旨 >>>

〈590〉お逢いしてから年月が流れ、今なら差し障りはないなどと、気軽に私の名を口になさらないで下さい。

〈591〉私の恋心を、人に知られてしまったのでしょうか。玉櫛笥の蓋が開けられてしまった夢を見ました。

〈592〉闇夜に鳴く鶴が、声ばかりで姿を見せないように、ただ聞いているだけなのでしょうか、あなたにお逢いすることもないまま。

 

鑑賞 >>>

 笠郎女(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った歌。590の「あらたまの」は「年」の枕詞。「今しはと」の「し」は、強意。今なら差し障りはないと思って。「ゆめよ~な」は、強い禁止。591の「玉櫛笥」の「玉」は美称で、櫛などを入れる箱。郎女が見たという櫛笥の蓋が開けられた夢は、秘密にしていた恋が露見する兆しだとして、590の歌と併せて家持に贈って注意を促したものとみえます。窪田空穂はこれらの歌を、年下の者を諭すがごとき口吻が明らかであると言っています。

 また、592は上の2首とは別な時に詠んで贈ったものと思われるとして、「家持の疎遠にするのを嘆いて訴えたものであるが、しっかりとした調べの中に、訴えの心を漂わさせているもので、その人柄のみならず年齢をも想像させるところがある。『闇の夜に鳴くなる鶴の』という譬喩は、当時は鶴が少なからずいたとみえるから、取材としては平凡なものであるが、気分をあらわす上では適切なものである。ものを思わせられている夜の高い声の鶴は、女郎より見ると貴公子としての家持をさながらに思わせるに足るものであり、また遠情を誘うものでもあったろうと察せられる」と述べています。