訓読 >>>
1619
玉桙(たまほこ)の道は遠けどはしきやし妹(いも)を相(あひ)見に出でてぞ我(あ)が来(こ)し
1620
あらたまの月立つまでに来ませねば夢(いめ)にし見つつ思ひそ我(あ)がせし
要旨 >>>
〈1619〉道のりは遠くても、いとおしいあなたに逢うために、私はやって来ました。
〈1620〉月が改まるまでにいらっしゃらないので、私は夢にまで見続けて、物思いをしてしまいました。
鑑賞 >>>
1619は大伴家持、1620は大伴坂上郎女の歌。大伴氏は竹田の庄(橿原市)と跡見(とみ)の庄(桜井市外)を経営していました。ふだんは都の邸宅に住んでいるので、管理人を置いて日常の管理をさせ、春の作付けと秋の収穫には出向いて立ち会う必要がありました。ここの歌は、天平11年(739年)、竹田の庄(橿原市)に秋の収穫のため下向していた叔母・大伴坂上郎女のもとを、家持が訪ねたときに交わした歌です。
このとき家持は23歳、「妹」はふつう男性から恋人に対してかける言葉ですから、叔母に対して用いるのは一般的ではありません。少しふざけて、庄への訪問を、逢引にやって来たように謡ったものでしょうか。それに答えたのが1620で、男を待ち侘びた女として歌を返しています。とはいえ、これらはあくまで儀礼の範囲のやり取りであるとみられています。1619の「玉桙の」は「道」の枕詞、「はしきやし」は、ああ愛しい、ああ慕わしい。1620の「あらたまの」は「年」に掛かる枕詞ですが、ここでは「月」に転じています。「月立つまでに来ませねば」は、月が改まるまでにいらっしゃらないので。延び延びになっていた家持の訪問を皮肉った表現です。
郎女は、収穫された稲の検分、労働者への慰労、税関係の雑用などで多忙を極めていたのでしょう。家持は家持で、都での公務で忙しかったはずです。また家持は、この夏6月に、子までもうけた妾を失い(巻第3-462~474)、初秋のころまで嘆きの中にありました。郎女とともに庄にあったらしい娘の大嬢と家持との間で、恋歌らしい恋歌が交わされるようになるのは、この秋9月からのことです。
大伴家持の略年譜
718年 家持生まれる(在京)
724年 聖武天皇即位
728年 父の旅人が 大宰帥に
731年 父の旅人が死去(14歳)
738年 内舎人となる(21歳)
橘諸兄との出会い
739年 妾と死別(22歳)
坂上大嬢との出会い
741年 恭仁京の日々(24歳)
744年 安積親王が死去
745年 従五位下に叙せられる(28歳)
746年 越中守となる(29歳)
749年 従五位上に昇叙(32歳)
751年 少納言となる(34歳)
754年 兵部少輔を拝命(37歳)
755年 難波で防人を検校、防人歌を収集(38歳)
756年 聖武太上天皇が崩御
757年 橘諸兄が死去
兵部大輔に昇進(40歳)
橘奈良麻呂の乱
758年 因幡守となる(41歳)
淳仁天皇即位
759年 万葉集巻末の歌を詠む(42歳)
764年 薩摩守となる(48歳)
恵美押勝の乱
766年 称徳天皇が重祚
道鏡が法王となる
767年 大宰少弐となる(50歳)
770年 道鏡が下野国に配流
正五位下に昇叙(53歳)
771年 光仁天皇即位
従四位下に昇叙(54歳)
774年 相模守となる(57歳)
776年 伊勢守となる(59歳)
777年 従四位上に昇叙(60歳)
778年 正四位下に昇叙(61歳)
780年 参議となり、右大弁を兼ねる(63歳)
781年 桓武天皇即位
正四位上に昇叙(64歳)
従三位に叙せられ公卿に列する
783年 中納言となる(66歳)
784年 持節征東将軍となる(67歳)
長岡京遷都
785年 死去(68歳)