大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

うつせみは数なき身なり・・・巻第20-4468~4469

訓読 >>>

4468
うつせみは数なき身なり山川(やまかは)のさやけき見つつ道を尋(たづ)ねな

4469
渡る日の影に競(きほ)ひて尋ねてな清(きよ)きその道またもあはむため

 

要旨 >>>

〈4468〉生きてこの世にあるのは取るに足らない身。清らかな山や川を眺めながら悟りの道を尋ねてみたいものだ。

〈4469〉空を渡る日の光が早く過ぎ行くのに負けないよう、悟りの道を尋ね求めたいものだ。再びあの佳き世に出逢うために。

 

鑑賞 >>>

 天平勝宝8年(756年)6月、大伴家持の「病に臥して無常を悲しみ、修道を欲する」歌。人間というものはそう長生きをするものではないのだから、俗世から離れ、自然の風光に接しながら、仏道を修めたいと言っています。4468の「うつせみ」は、この世の人。「数なき」は、取るに足らない。「道」は仏道。4469の「渡る日のかげ」の「かげ」は、光。「またもあはむため」は、聖武天皇の在世を意識しています。

 この時、家持を覆った深刻さは、病に臥した嘆きとともに、政界で最も頼りにしていた橘諸兄が引退、死去し、将来への展望が見い出し難くなったことです。諸兄が亡くなったあとの中央政界の要職は、右大臣に藤原豊成、大納言に藤原仲麻呂、権中納言藤原永手、参議に藤原清河、藤原八束らが名を連ね、他氏では中納言に紀麻呂、多治比広足、参議に大伴兄麻呂、石川年足橘奈良麻呂らが在職したのみでした。家持はこの時期、従五位上・兵部少輔の位にありました。

 なお、奈良時代は積極的に中国文化を受け入れ、聖武天皇東大寺大仏建立に代表されるような仏教国家となったにもかかわらず、『万葉集』には仏教の浸透は多く見られません。山上憶良などによる漢文には仏教思想が見られ、ことばとしては「寺」「法師」「檀越(檀家のこと)」「餓鬼」などが現れるものの、思想的な歌には乏しく、後世の釈教歌(仏教の教えを説く歌)のようなものは殆どありません。その中で目立つのがここの家持の仏道修行を願う歌です。まだこの時代、仏は万葉びとの心を支える「神」とはなり得ていなかったようなのです。

 

大伴家持の略年譜

718年 家持生まれる(在京)
724年 聖武天皇即位
728年 父の旅人が 大宰帥
731年 父の旅人が死去(14歳)
738年 内舎人となる(21歳)
    橘諸兄との出会い
739年 妾と死別(22歳)
    坂上大嬢との出会い
741年 恭仁京の日々(24歳)
744年 安積親王が死去
745年 従五位下に叙せられる(28歳)
746年 越中守となる(29歳)
749年 従五位上に昇叙(32歳)
751年 少納言となる(34歳)
754年 兵部少輔を拝命(37歳)
755年 難波で防人を検校、防人歌を収集(38歳)
756年 聖武太上天皇崩御
757年 橘諸兄が死去
    兵部大輔に昇進(40歳)
    橘奈良麻呂の乱
758年 因幡守となる(41歳)
    淳仁天皇即位
759年 万葉集巻末の歌を詠む(42歳)
764年 薩摩守となる(48歳)
    恵美押勝の乱
766年 称徳天皇重祚
    道鏡が法王となる
767年 大宰少弐となる(50歳)
770年 道鏡下野国に配流
    正五位下に昇叙(53歳)
771年 光仁天皇即位
    従四位下に昇叙(54歳)
774年 相模守となる(57歳)
776年 伊勢守となる(59歳)
777年 従四位上に昇叙(60歳)
778年 正四位下に昇叙(61歳)
780年 参議となり、右大弁を兼ねる(63歳)
781年 桓武天皇即位
    正四位上に昇叙(64歳)
    従三位に叙せられ公卿に列する
783年 中納言となる(66歳)
784年 持節征東将軍となる(67歳)
    長岡京遷都
785年 死去(68歳)