訓読 >>>
3754
過所(くわそ)なしに関(せき)飛び越ゆるほととぎす多我子尓毛 止(や)まず通(かよ)はむ
3755
愛(うるは)しと我(あ)が思(も)ふ妹(いも)を山川(やまかは)を中にへなりて安けくもなし
3756
向(むか)ひ居て一日(ひとひ)もおちず見しかども厭(いと)はぬ妹(いも)を月わたるまで
3757
我(あ)が身こそ関山(せきやま)越えてここにあらめ心は妹(いも)に寄りにしものを
3758
さす竹(だけ)の大宮人(おほみやひと)は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ [一云 今さへや]
要旨 >>>
〈3754〉通行手形なしに関所を飛び越えられるホトトギスよ、私もお前のようにここと都と絶えず行き来したいものだ。
〈3755〉端正で美しいと思うあなたなのに、山やに中を隔てたられ、安らかな気持ちでいられない。
〈3756〉向かい合って一日も欠かさず顔を見ていても、少しも飽きることがなかったあなたなのに、もう何ヶ月にもわたるまで見ていない。
〈3757〉この我が身こそ、関や山を隔ててこんな遠くにあるが、心はあなたの傍に寄り添っています。
〈3758〉あの大宮人たちは、今でもなお、人をなぶることばかりを好んでしているだろうか。(今も相変わらず)
鑑賞 >>>
中臣宅守の歌13首のうちの5首。3754の「過所」は、関所を通過するための許可証。歌意は上記のとおりとしましたが、「多我子尓毛」は訓義未詳で、「わが思ふ子にも」「いづれの子にも」「まねく吾子にも」「かにもかくにも」など多くの訓読案が提示されています。3756の「一日もおちず」は、一日も欠かさず。3757の「関山」は、愛発(あらち)の関のある愛発山。
3758の「さす竹の」は「大宮」の枕詞。「今もかも」の「かも」は、疑問。「人なぶり」は、人をからかい、いじめる意。「らむ」は、現在推量。都に残った娘子の身の上を心配している歌です。 大宮人による「人なぶり」は「今もかも」とあることから、宅守が都にいた時からのことのようであり、その事実と内容は二人の間では共通の認識だったはずですが、この歌だけでは何のことか不明です。