訓読 >>>
1024
長門(ながと)なる沖つ借島(かりしま)奥(おく)まへて我(あ)が思ふ君は千年(ちとせ)にもがも
1025
奥(おく)まへて我(わ)れを思へる我(わ)が背子(せこ)は千年(ちとせ)五百年(いほとせ)ありこせぬかも
1026
ももしきの大宮人(おほみやひと)は今日(けふ)もかも暇(いとま)をなみと里に行かずあらむ
1027
橘(たちばな)の本(もと)に道(みち)踏(ふ)む八衢(やちまた)に物をぞ思ふ人に知らえず
要旨 >>>
〈1024〉私の任国、長門にある沖の借島のように、心奥深く思い慕っているあなた様は、千年先までご健勝であられますように。
〈1025〉心の奥深くに私を思っていて下さるあなたこそ、五百年も千年もご健勝でいて下さらないでしょうか。
〈1026〉帝にお仕えする方々は、今日もまた忙しくて暇なく、都の外に出ることもなく勤めに励んでおられるのでしょうか。
〈1027〉橘の並木の下を歩んでいく多くの分かれ道のように、あれやこれやと思い悩んでいます。この思いをあの人に知ってもらえずに。
鑑賞 >>>
天平10年(738年)秋の8月20日に、右大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)邸で宴(うたげ)する歌。橘諸兄は、もとは敏達天皇の後裔にあたる葛城王(かづらきのおおきみ)でしたが、臣籍降下して橘姓を名乗るようになり、この年の1月に右大臣に就任しました。この宴は、長門国から上京した客人を迎えて開かれたものですが、なぜ一介の地方役人が右大臣に招かれたのか定かではありません。
1024は、長門守の巨曽倍対馬朝臣(こそべのつしまあそみ)の歌。当日の客人は4名、長門守の官位はその中では最下位でした。「長門」は、山口県北西部。「沖つ借島」は、下関市の蓋井(ふたおい)島か。上2句が「奥まへて」を導く序詞。「奥まへて」は、心深く。「もがも」は、願望。1025は、右大臣諸兄が答えた歌。「ありこせぬかも」の「ぬかも」は強い願望で、そうあってほしい。遠来の長門守を温かく迎えており、何らかの縁故があったとみえます。
1026は、右大臣が「亡き豊島采女の歌である」と伝えて詠んだ歌。豊島采女は、豊島出身の采女とされますが伝未詳。采女は天皇の近くに仕えた地方豪族の娘で、容姿端麗な女性が選ばれました。「ももしきの」は「大宮」の枕詞。「大宮人」は、宮廷に仕える人々。「今日もかも」の「かも」は、疑問。「暇をなみ」は、暇がないので。「里」は、田舎。貴族たちの生産の場、田庄。大宮人の妻となって里住みをし、連日夫の来ないのを恨んでの歌と見られますが、采女の自作というより、宴席で口吟された古歌であろうといわれます。
1027は、左注に次のような記載があります。「右の歌は、右大弁の高橋安麻呂卿(たかはしのやすまろきょう)が語って、『亡き豊島采女の作である』と言った。ただし或る本には、『三方沙弥(みかたのさみ)が妻の苑臣(そののおみ)を恋い慕って作った歌である』という。すると豊島采女は、その時その場でこの歌を口吟(うた)ったのだろうか」。1026の歌を右大臣が豊島采女の歌として披露し話題にしたことで、安麻呂もまた同じく、豊島采女がよく口吟していたこの歌を披露したのだと思われます。上3句が「物をぞ思ふ」を導く序詞。「橘」は、都大路の街路樹として植えられていたもの。「八衢」は道が四方八方に分かれているところ。
なお、同じ宴席で詠まれた歌が巻第8-1574~1580に載っています。
宴席のありかた
当時の宴には一定の約束があり、原則として主人(あるじ)と正客(主賓)がいて、他の客はいわば正客のお相伴にあずかるような形でした。そして、基本的に宴は夜通し行われました。このような宴のありかたは、その起源と関係しています。宴の起源は神祭りであり、神を迎えて神に饗応するところに祭りの本質がありました。宴の正客は、祭りの場に迎える神に対応し、主人は祀り手の位置に重ねられています。宴が夜通し行われるのも、祭りのありかたを踏襲するからです。
宴の次第についても原則があったらしく、主人が歓迎の言葉を述べ、客もまた招かれたことへの感謝の意を表します。酒杯の取り交わしにも、それぞれの挨拶が求められ、宴が果てれば、もてなしに対する礼と辞去の言葉が客から、また引き留めの言葉が主人から述べられます。客は名残を惜しみつつ帰途につくことになります。それらの挨拶は、歌をともなうのが通例でした。