大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

防人の歌(2)・・・巻第20-4321~4323

訓読 >>>

4321
畏(かしこ)きや命(みこと)被)かがふ)り明日(あす)ゆりや草(かえ)がむた寝む妹(いむ)なしにして

4322
我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影(かご)さへ見えてよに忘られず

4323
時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来(でこ)ずけむ

 

要旨 >>>

〈4321〉恐れ多くも大君の仰せを承って、明日からは草と一緒に寝ることになるのだろうか、愛する妻もいないまま。

〈4322〉私の妻は私のことをひどく恋しく思っているらしい。飲む水の上に面影になって見えるので、少しも忘れることができない。
 
〈4323〉季節が変わるごとに花は色々咲くけれど、どうして母という名の花は咲いてこないのだろう。

 

鑑賞 >>>

 いずれも遠江国出身の人たちの作で、4321の作者は、国造(くにのみやつこ)の丁(ちょう)、長下郡(ながのしものこうり)の物部秋持(もののべのあきもち)とあり、国造(世襲の地方官)の家から出た、防人の中では最上級の人。4322は、主帳(しゅちょう)の丁、麁玉郡(あらたまのこおり)の若倭部身麻呂(わかやまとべのみまろ)とあり、主張(郡の四等官、公文に関する記録係)の家から出た人。4323は、防人(さきもり)山名郡(やまなのこおり)の丈部真麻呂(はせつかべのままろ)とあり、一般兵士にあたります。

 4321の「命被り」は「大君の命畏み」と同じ意。「明日ゆりや」の「ゆり」は「より」の方言。「共寝む」の「共(むた)」は「とも」の古語。「草(かえ)は「かや」の方言で、草(くさ)のこと。「妹(いむ)」は「いも」の方言。防人たちが難波に行き着くまでの旅の宿については、「軍防令」にも記載がなく、他の歌に「草枕旅の丸寝」「旅の仮廬」などの言葉が出てくるところから、整った施設があったとは考えられません。草と共に寝る野宿だったのでしょう。

 4322の「影(かご)」は影(かげ)の方言。「よに」は、決して、全然。4323の「時々の」は、季節ごとの。「母とふ花」が何の花であるかは、春の七草の「ごぎょう」を「母子草」と呼んでいたともいわれますが未詳で、あるいは母を花に喩えた表現なのかもしれません。まだ妻のない独身者の歌と見られます。「けむ」は過去推量。

 防人は任務の期間も一部の税しか免除されなかったため、農民にとってはたいへん重い負担でした。また、徴集された防人は、部領使(ことりづかい/ぶりょうし:引率する係りの者)が同行して連れて行かれましたが、自弁でした。部領使は馬に乗り、従者もいましたが、防人たちは徒歩のみで、夜は寺院などの宿泊場所がなければ野宿させられました。もっと辛いのが任務が終わって帰郷する際で、付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかったといいます。遠い東国の人間がなぜ防人に徴集されたかの理由の一つに、強い東国の力を削ぎ、その反乱を未然に防ぐため、あえて東国の男たちを西に運んだとする見方がありますが、容易に帰れないように仕向けたのはそのためだったともいわれます。

 筑紫に着いた防人たちは、「軍防令」の定めによって土地がもらえました。自給自足の農耕を行うためです。防人といっても実際に戦う機会はなく、土地がもらえて気候が温暖で文化も進んだ地に馴染み、さらに故郷への帰途が極めて困難となれば、そのまま土着する者も少なくなかったことは想像に難くありません。

 

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防人設置の経緯

 斉明天皇の治世6年(660年)7月、朝鮮半島に鼎立していた3つの国の一つ、百済が、唐の加勢を得た新羅によって滅ぼされました。といっても百済の息の根が完全にとまったわけではなく、国王や高官たちが捕えられて唐に送られた後も、遺臣たちが次々に挙兵して国勢を挽回しようとしました。中でも有力だったのが、鬼室福信(きしつふくしん)という将軍です。

 9月はじめ、来朝した百済の官人と僧によってこのことが伝えられると、日本の朝廷は愕然としました。百済と日本のつながりは強く、親善関係を持っていた国です。ショックのおさまらない10月、鬼室福信からの使者がやって来て、日本の救援を乞います。福信は、30年近く人質として日本に預けてある王子の豊璋(ほうしょう)を新国王としたいから返してほしい、それといっしょに援軍を、というものでした。

 朝議は紛糾し、結局、当時の政治を取りし切っていた皇太子・中大兄皇子の決断によって、百済救援と決まりました。68歳の老女帝の乗った軍船を中心に、皇族、高官の乗る船団が難波の津(大阪湾)を出たのは、斉明7年(661年)正月6日。3月25日に那(な)の大津(博多港)に入りましたが、7月、暑さと疲労のため、老女帝が亡くなります。皇太子には、母の死を悼むゆとりもありません。即位もせず、皇太子のままで国政を司ることになります(即位は668年)。

 遠征の先発部隊5千余人が、豊璋を伴い出発したのは翌年(662年)正月のこと。さらに1年後の3月、救援第2軍2万7千人が半島に向かい、日本としては、まさに国運をかけての大軍事行動でした。そして、8月27、8両日にわたる白村江(錦江の古名)の決戦で、日本・百済の連合軍は、唐・新羅連合軍に惨敗し、百済はついに滅んだのでした。

 事態はこれで終わりではありませんでした。勢いに乗じた唐、新羅が、いつ攻め寄せてくるか分からない緊急事態となり、その備えとして朝廷がまずとった防衛策は、壱岐対馬・筑紫に防人を置くという制度であり、同時に烽(とぶひ:急を伝えるための狼煙)の制度であり、大宰府防衛のための水城(みづき)の築造でした。

 防人は、正式には「ぼうにん」と読み、唐の制度にならったものです。「さきもり」は日本読みで、前守、崎守、岬守などの字があてられました。辺境、特に九州北部を中心とした西海の辺境を守る軍隊という意味です。防人の制度は、実はこの時より18年前の、大化2年(646年)に出された「改新の詔」のなかに「初めて京師(みさと)を修め、畿内(うちつのくに)の国司、郡司、関塞(せきそこ)、斥候(やかた)、防人、駅馬(はゆま)、伝馬(つたはりうま)を置く」と出てきますが、この時は文書だけのきまりで、実際には、この天智3年(664年)に編成されたものであろうといわれます。