訓読 >>>
4401
韓衣(からころむ)裾(すそ)に取り付き泣く子らを置きてぞ来(き)ぬや母(おも)なしにして
4402
ちはやぶる神の御坂(みさか)に幣(ぬさ)奉(まつ)り斎(いは)ふ命(いのち)は母父(おもちち)がため
4403
大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み青雲(あをくむ)のとのびく山を越よて来(き)ぬかむ
要旨 >>>
〈4401〉私の裾に取りすがって泣く子らを置いて来た。子には母親もいないというのに。
〈4402〉神様のいらっしゃる御坂にお供えをし、わが命の無事をお祈りするのは母と父のためなのだ。
〈4403〉大君のご命令を畏んで、青雲のたなびく山を越えてやって来た。
鑑賞 >>>
信濃国(長野県)の防人の歌。作者は、4401が国造、小県郡(ちいさがたのこおり)の他田舎人大島(おさだのとねりおおしま)。4402は埴科郡(はにしなのこおり)の主帳、神人部子忍男(みわひとべのこおしお)。4403が小長谷部笠麻呂(おはつせべのかさまろ)。
4401の「韓衣」は大陸風の衣服で、横幅の裾がついていたところから「裾」の枕詞。「子ら」の「ら」は接尾語(複数の子と考える向きもある)。子の母、彼の妻は死んだのでしょうか。「母なしにして」と、何気ないように付け加えられたこの7文字が、この悲劇を重層化しています。4402の「ちはやぶる」は「神」の枕詞。「神の御坂」は、東山道を美濃へ越える神坂峠か。「幣」は、神に捧げるもの。「斎ふ」は、身を慎んで吉事を祈る。4403の「青雲(あをくむ)」は「あをくも」の方言。「越よて」は「越えて」の方言。「かむ」は「かも」の方言。
なお、4403の後に「部領使が、途中病を得て難波へは来なかったが、歌は進(たてまつ)った」旨の記載があり、防人の歌は、部領使がその職責として必ず進上しなければならなかったことが分かります。そのようにして進上された歌は合計166首と記録されています。ただし、国ごとにまとめられた歌の末尾に「進上された歌の数は〇〇首。但し、拙き歌△△首は取り載せず」というような注記があり、採録されたのは84首で、半数近くが拙劣歌として除かれています。和歌作りはなかなか厳しい世界だったようですが、「拙き歌」と判断されたのがどのような歌だったのか、むしろそちらの方が気にかかるところです。
10か国それぞれの部領使を通じて兵部省に提出された日付は、国ごとに付された左注によって明らかになっており、遠江が2月6日、相模が2月7日、駿河が2月7日(実際は9日)、上総が2月9日、常陸と下野が2月14日、下総が2月16日、信濃が2月22日、上野が2月23日、最後の武蔵が2月29日となっています。こうした防人歌収集が、それまでにも行われていたかどうかは不明です。
提出された防人歌は、国ごとに同一の場で作られ、その場での歌の流れを意識して作歌されたものと考えられています。かつては一般農民と捉えられていた防人たちですが、むしろ歌の様式を理解し、その場で詠まれた歌の内容を理解し、求められる歌を作るだけの技量や知識を持つ階層の人だったことが窺えます。しかし、決して全員がそうだったのではなく、中には技量や知識が乏しいままに詠んだ防人もいたのでしょう。