大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

肩のまよひは誰れか取り見む・・・巻第7-1265

訓読 >>>

今年行く新防人(にひさきもり)が麻衣(あさごろも)肩のまよひは誰(た)れか取り見む

 

要旨 >>>

今年送られていく新しい防人の麻の衣の肩のほつれは、いったい誰が繕ってやるのだろうか。

 

鑑賞 >>>

 「新防人」は、新しく徴発されて筑紫に派遣される防人。「まよひ」は、布の織り糸がほつれること。「誰か取り見む」は、誰が世話するのだろうか。作者は防人の出発を見送っている第三者とみられ、3年間の苦役に従事しなくてはならない男をあわれんでいます。詩人の大岡信は、「他のことは言わず、肩のほつれのことを想いやって言っているこまやかさは、女でなければなるまい」と言っています。

 

防人について

 防人(さきもり)は、663年に百済救済のために出兵した白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたのを機に、北九州沿岸の防衛のため、軍防令が発せられて設置されました。大宰府に防人司(さきもりのつかさ)が置かれ、防人たちは、壱岐対馬の2島と筑紫の要害の地に配備されました。おもに東国の出身者の中から選抜、定員は約1000名、勤務期間は3年とされていました。

 防人の徴兵は、逃げたり仮病を使ったりさせないため、事前連絡もなく突然に行われたといいます。まず都に集め、難波の港から船で筑紫に向かいました。家から難波までの費用は自前でした。なお、『万葉集』に防人の歌が数多く収められているのは、当時(天平勝宝7年)、出港地の難波で防人の監督事務についていた大伴家持が、彼らに歌を献上させ採録したからだといわれます。

 ところで、このころ防人として徴兵されたのが、わずかな例外を除いて、ずっと東国の出身者だったのは何故でしょうか。いろいろな説があるようですが、一説にはこう言います。

 白村江の戦い以降、日本に逃れてきた百済の宮廷人や兵士は、それぞれ朝廷で文化や軍事の担い手として活躍しました。しかし、身分の低い人や兵士らは幾度かに分けて東国に移植されました。同族間の憎しみは、ときにより激しいものになるといいます。天智天皇は東国で新たな生活を始めた百済人を防人として、再びかり出し、日本を襲ってくるかもしれない彼らの祖国の同胞に立ち向かわせたというのです。何とも切ないお話です。