大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

防人の歌(27)・・・巻第20-4391~4392

訓読 >>>

4391
国々の社(やしろ)の神に幣(ぬさ)奉(まつ)り贖乞(あがこひ)すなむ妹(いも)が愛(かな)しさ

4392
天地(あめつし)のいづれの神を祈らばか愛(うつく)し母にまた言(こと)問はむ

 

要旨 >>>

〈4391〉国々の社の神々に幣を捧げて、私の旅の無事を祈っているだろう妻が愛しい。

〈4392〉天の神、地の神のどの神様にお祈りしたら、愛しい母とまた話ができるようになるのだろうか。

 

鑑賞 >>>

 下総国の防人の歌。4391が結城郡(ゆうきのこおり)の忍海部五百麻呂(おしぬみべのいおまろ)、4392が埴生郡(はにゅうのこおり)の大伴部麻与佐(おおともべのまよさ)。4391の「幣」は、神に祈る際に捧げるもの。「贖乞すなむ」の原文「阿加古比須奈牟」で語義未詳ながら、①「贖乞」だとして、災難を逃れるために物を捧げて祈る意、②「我が恋」だとして、私が恋しく思っている意、と解する説があります。「すなむ」は「すらむ」の転。4392の「天地(あめつし)」は「あめつち」の転。

 

 

 

防人設置の経緯

 斉明天皇の治世6年(660年)7月、朝鮮半島に鼎立していた3つの国の一つ、百済が、唐の加勢を得た新羅によって滅ぼされました。といっても百済の息の根が完全にとまったわけではなく、国王や高官たちが捕えられて唐に送られた後も、遺臣たちが次々に挙兵して国勢を挽回しようとしました。中でも有力だったのが、鬼室福信(きしつふくしん)という将軍です。

 9月はじめ、来朝した百済の官人と僧によってこのことが伝えられると、日本の朝廷は愕然としました。百済と日本のつながりは強く、親善関係を持っていた国です。ショックのおさまらない10月、鬼室福信からの使者がやって来て、日本の救援を乞います。福信は、30年近く人質として日本に預けてある王子の豊璋(ほうしょう)を新国王としたいから返してほしい、それといっしょに援軍を、というものでした。

 朝議は紛糾し、結局、当時の政治を取りし切っていた皇太子・中大兄皇子の決断によって、百済救援と決まりました。68歳の老女帝の乗った軍船を中心に、皇族、高官の乗る船団が難波の津(大阪湾)を出たのは、斉明7年(661年)正月6日。3月25日に那(な)の大津(博多港)に入りましたが、7月、暑さと疲労のため、老女帝が亡くなります。皇太子には、母の死を悼むゆとりもありません。即位もせず、皇太子のままで国政を司ることになります(即位は668年)。

 遠征の先発部隊5千余人が、豊璋を伴い出発したのは翌年(662年)正月のこと。さらに1年後の3月、救援第2軍2万7千人が半島に向かい、日本としては、まさに国運をかけての大軍事行動でした。そして、8月27、8両日にわたる白村江(錦江の古名)の決戦で、日本・百済の連合軍は、唐・新羅連合軍に惨敗し、百済はついに滅んだのでした。

 事態はこれで終わりではありませんでした。勢いに乗じた唐、新羅が、いつ攻め寄せてくるか分からない緊急事態となり、その備えとして朝廷がまずとった防衛策は、壱岐対馬・筑紫に防人を置くという制度であり、同時に烽(とぶひ:急を伝えるための狼煙)の制度であり、大宰府防衛のための水城(みづき)の築造でした。

 防人は、正式には「ぼうにん」と読み、唐の制度にならったものです。「さきもり」は日本読みで、前守、崎守、岬守などの字があてられました。辺境、特に九州北部を中心とした西海の辺境を守る軍隊という意味です。防人の制度は、実はこの時より18年前の、大化2年(646年)に出された「改新の詔」のなかに「初めて京師(みさと)を修め、畿内(うちつのくに)の国司、郡司、関塞(せきそこ)、斥候(やかた)、防人、駅馬(はゆま)、伝馬(つたはりうま)を置く」と出てきますが、この時は文書だけのきまりで、実際には、この天智3年(664年)に編成されたものであろうといわれます。

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について