大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

三日月の眉根掻き・・・巻第6-993~994

訓読 >>>

993
月立ちてただ三日月の眉根(まよね)掻(か)き日長く恋ひし君に逢へるかも

994
ふりさけて若月(みかづき)見ればひと目見し人の眉引(まよび)き思ほゆるかも

 

要旨 >>>

〈993〉姿をあらわしてたった三日という細い月のかたちの眉を掻いて、ずっと恋しく思っていたあなたに逢えました。

〈994〉空を振り仰いで三日月を見ると、ひと目逢っただけのあの人の、美しい眉が思い出されます。

 

鑑賞 >>>

 993が大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の歌、994が大伴家持の歌です。天平5年、郎女が佐保宅から西の家へ帰る家持に向けて詠んだ歌と、それに答えて家持が詠んだ歌とされます。佐保宅は、旅人の父(安麻呂)の代以来の「大納言大将軍大伴卿」「佐保大納言卿」の家で、孫の家持に至る3代の家屋敷ですが、この時の家持は16歳で、大伴家の所有する別宅に移り住んでいました。佐保宅の西の方角にあったことから「西宅」「西の家」と呼ばれていました。

 993の「三日月の眉根」は、黛(まゆずみ)で描いた引き眉のことで、当時、細く三日月のように描くのが中国風の最新モードとされ、それに倣った化粧法のようです。また、眉が痒くなるのは恋人が訪れてくる前兆とする俗信があり、坂上郎女は、恋人に逢いたいと思う気持ちから、自分の眉を掻いたら、そのとおりに恋人がやって来た、と言っています。これに答えた家持の歌にある「ひと目見し人の眉引き思ほゆるかも」というのは、佐保宅で見た郎女の娘(坂上大嬢:後の家持の妻)のことを言っているのでしょうか、それとも歌を寄せた郎女のことでしょうか。

 藤原麻呂との恋を失った坂上郎女は、高齢の異母兄・大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ)に嫁ぎましたが、二人の娘が生まれた後、夫に先立たれます。そして、大宰府にいる異母兄・大伴旅人が妻を亡くしたので、旅人と住むことになりました。その理由としては、旅人の後妻になるためとも、旅人やその子・家持らの世話をし、大伴一族の家刀自(いえとじ)として家政を取り仕切るためだったとも言われています。

 やがて坂上郎女は、甥の家持の歌の指導を行うようになります。上の2首はその一環としてのやり取りとされ、国文学者の窪田空穂は、その指導したことは明らかであるとして、「それは二つのことで、第一は初月は眼前の実物で、それを見ている態度で詠むのであるが、必ずしもそれに即そうとはせず、それによって連想される情趣的なことを詠むことである。第二には、その情趣は、自身の体験として得たもので、個人的なものであるが、それと同時に他人も体験しうる一般性をもったものだということである。これを歌そのものの上でいうと、郎女としては、初月を見ると、それを自身の眉根の形を連想させるものとしてその譬喩に用い、転じてその眉根が痒くて掻くという、自身のことであると同時に当時の人だと誰でも体験していることに展開させ、再転させてその前兆どおり、待ちこがれている夫に逢えたことにしたのである。これは当時の女性としては最も喜ばしい、一般性をもったことなのである。これは穿ちすぎた解のごとくであるが、この歌に続いている家持の歌は、男女の相違があるだけで、題の扱い方は全く同一であるのでも知られることであり、またこの歌のみとしても、郎女の平常の、柔らかく屈折はもちながらも、単純にして率直で、冴えを失っていないのにくらべて、この歌は技巧がありすぎ、一首としての綜合統一がたりず、したがって調べの冴えに遠いことも、全く作為のものであることを思わせるからである」と述べています。

 なお、これ以後、家持が19歳になる天平8年(736年)9月に「秋の歌4首」(巻第8-1566~1569)を詠むまで、彼の動静を示す歌は載っていません。10代後半のこの時期は、歌の勉強というより、叙任に備えた孝経・論語千字文・詩文などの学習に没頭していたのかもしれません。

 

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