大和の国のこころ、万葉のこころ

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大宮の内まで聞こゆ・・・巻第3-238

訓読 >>>

大宮(おほみや)の内(うち)まで聞こゆ網引(あびき)すと網子(あこ)ととのふる海人(あま)の呼び声

 

要旨 >>>

大君のおられる御殿の中まで聞こえてくる、網を引こうとして、網子たちを指揮する漁師の威勢のいい掛け声が。

 

鑑賞 >>>

 題詞に「詔(みことのり)に応(こた)ふる歌」とあり、文武3年(699年)の持統上皇文武天皇の難波行幸の時の歌とされます。「大宮(皇居の尊称)」は、ここは大阪市中央区法円坂にあった離宮としての難波宮。当時の海岸線は宮殿のある近くまで入り込んでいたとされ、ふだん大和の藤原京に住まわれる天皇には、海の光景がたいへん珍しく面白く思われ、供奉の長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)に歌を作れと仰せられたようです。

 「網引」は、地引き網。「網子」は、地引き網を引く人。「ととのうる」は、掛け声によって網子たちの動作の調子を合わせること。「海人」は、網子を指揮している漁師のこと。「海人」はもともと部族の名であったのが、彼らが海で漁をするところから、転じて漁師の意味になったといいます。「呼び声」は、掛け声。即興歌とみられるものの、下3句の句頭が「あ」の繰り返しになっていて、また5句すべての句頭が母音という技巧を凝らしています。

 この歌について斎藤茂吉は次のように言っています。「応詔の歌だから、調べも謹直であるが、ありのままを詠んでいる。しかしありのままを詠んでいるから、大和の山国から海浜に来た人々の、喜ばしく珍しい心持が自然にあらわれるので、強いて心持を出そうなどと意図しても、そう旨くいくものではない。また、特に帝徳を賛美したような口吻もなく、離宮に聞こえてくる海人等の声を主に歌っているのであるが、それでも立派に応詔歌になっている」

 作者の長忌寸意吉麻呂(生没年未詳)は、柿本人麻呂高市黒人などと同じ時期に宮廷に仕えた下級官吏だったとされます。行幸の際の応詔歌、羇旅歌、また宴席などで会衆の要望にこたえた歌、数種のものを詠み込んだ歌、滑稽な歌など、いずれも短歌の計14首を残しています。とくに、巻第16にある、数種類の物の名前を詠み込んだ歌(3824~3831)のように、即興でありながら、いきいきと言葉を活動させているところに、彼の詩性の本質があったようです。

 

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『万葉集』掲載歌の索引

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