大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

聖武天皇が難波の宮に行幸あったとき、笠金村が作った歌・・・巻第6-928~929

訓読 >>>

928
おしてる 難波(なには)の国は 葦垣(あしかき)の 古(ふ)りにし里と 人皆(ひとみな)の 思ひやすみて つれもなく ありし間(あひだ)に 績麻(うみを)なす 長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷(し)きて 食(を)す国を 治(をさ)めたまへば 沖つ鳥 味経(あじふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)は 廬(いほ)りして 都なしたり 旅にはあれども

929
荒野(あらの)らに里はあれども大君(おほきみ)の敷きます時は都となりぬ

930
海人娘子(あまをとめ)棚(たな)なし小舟(をぶね)漕(こ)ぎ出(づ)らし旅の宿(やど)りに楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ

 

要旨 >>>

〈928〉難波の国は、もう古びた里だと、世の人は皆心にもかけなくなり、疎遠になっているうちに、われらの大君が、ここ難波長柄の宮に真木の柱を高く太くがっしりとお建てになり、この宮から天下をお治めになられるので、宮の前の味経の原に大勢の供奉の宮人たちが仮の廬を作って、ここ一帯を都となしている。行幸の供奉の旅ではあるけれども。

〈929〉ここ難波はいかにも荒野らしい里であるけれども、大君がおわします時には、賑わしい都となっている。

〈930〉漁師の娘たちが棚なしの小舟を漕ぎ出しているらしい。この浜辺の旅寝の宿に、櫓(ろ)の音がさかんに聞こえてくる。

 

鑑賞 >>>

 神亀2年(725年)冬の10月、聖武天皇が難波の宮に行幸あったとき、従駕の笠金村が作った歌。928の「おしてる」「葦垣の」は、それぞれ「難波」「古り」の枕詞。「績麻なす」は、麻糸の長い意で、「長柄」の枕詞。天皇飛鳥時代に造られた難波長柄豊崎宮の跡地に都を遷そうとして建設を進めたのでした。「真木柱」は、檜の柱。「高敷きて」は、立派に造って。「沖つ鳥」は「味経」の枕詞。「味経」は、宮殿南の平地。「八十伴の男」は、多くの大宮人。

 929の「荒野らに」の「荒野」は、人の立ち入らない野。「ら」は、音調のために添えた語。「敷きます」は、お治めになる。930の「棚なし小舟」は、船棚のない一枚板の小さな舟。当時、難波宮が造られた上町台地は海に囲まれた半島のような地形であり、奈良の大宮人たちにとって、間近に見える海はたいへん珍しい光景だったようです。