大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

防人の歌(9)・・・巻第20-4372

訓読 >>>

足柄(あしがら)の 御坂(みさか)賜(たま)はり 顧(かへり)みず 我(あ)れは越(く)え行く 荒(あら)し男(を)も 立(た)しやはばかる 不破(ふは)の関(せき) 越(く)えて我(わ)は行(ゆ)く 馬(むま)の爪(つめ) 筑紫(つくし)の崎(さき)に 留(ち)まり居(ゐ)て 我(あ)れは斎(いは)はむ 諸(もろもろ)は 幸(さけ)くと申(まを)す 帰り来(く)までに

 

要旨 >>>

足柄の御坂を通していただき、後を振り返らずに私は越えてゆく。荒々しい男でさえ立ち止まってためらう不破の関を越えて、私は行く。馬の蹄がすり減って尽きるほど遠い筑紫の崎にとどまって、私は身を清めて神に祈りを捧げよう。故郷の衆のみんなが達者でいてくれるように、と。無事に帰って来るまで。

 

鑑賞 >>>

 常陸国の防人、倭文部可良麻呂(しとりべのからまろ)の歌。「足柄の御坂」は神奈川県と静岡県の県境にある足柄峠。「御坂賜はり」の「御坂」は、坂には神が祀ってあるところからの敬称。「賜はり」は、坂の神のお許しをいただいて。「荒し男」は強く勇敢な男。「不破の関」は岐阜県関が原町にあった東山道の関所。「馬の爪」は「筑紫」の枕詞。防人による長歌は、この1首のみです。

 国文学者の窪田空穂はこの歌を評し、「語短く心を尽くしていっているもので、技巧としても勝れたものである。挨拶の語であるから、先蹤となるものがあったかもしれぬが、それとしても非凡なものである」と言っています。

 

防人歌について

 防人歌は東歌の中にも数首見られますが、一般には巻第20に収められた84首を指します。これらは天平勝宝7年(755年)に、諸国の部領使(ことりづかい:防人を引率する国庁の役人)に防人らの歌を進上させ、当時、兵部少輔(兵部省の次席次官)の官職にあり、防人交替業務を担当していた大伴家持が選別して採録しました。なぜ組織的にそのようなことが行われたかについては、防人たちの心情を伝える記録として、防人制度検討に際しての参考資料とするためだったようです。当時の兵部省の長官は橘奈良麻呂で、その父は左大臣の諸兄でしたから、諸兄から奈良麻呂を通じて、家持に防人歌収集の命が下された可能性があります。一方で、家持自身が、父の旅人以来の防人廃止を願う執念から、防人の窮状を訴える歌を収集したとする意見もあるようですが、いかがでしょう。

 なお、防人歌も長歌1首を除き、東歌と同様にすべてが完全な短歌形式(五七五七七)で一字一音の音仮名表記による統一した書式になっているところから、家持に進上されるまでに役人の手が加わった可能性が高いようです。