大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

防人の歌(24)・・・巻第20-4349

訓読 >>>

百隈(ももくま)の道は来(き)にしをまた更(さら)に八十島(やそしま)過ぎて別れか行(ゆ)かむ

 

要旨 >>>

多くの曲がりくねった道をここまではるばる来たのに、さらにまた多くの島をめぐって漕いで別れて行かねばならないのか。

 

鑑賞 >>>

 上総国の防人の歌。「百隅」は、多くの曲がり角。長い道のりを具象的に表現しています。「八十島」は、多くの島で、こちらも海路の遠いのを言っています。遥々陸路を辿ってきて、さらに難波から遥か筑紫に向けて船出する時の歌のようです。

 

防人歌について

 防人歌は東歌の中にも数首見られますが、一般には巻第20に収められた84首を指します。これらは天平勝宝7年(755年)に、諸国の部領使(ことりづかい:防人を引率する国庁の役人)に防人らの歌を進上させ、当時、兵部少輔(兵部省の次席次官)の官職にあり、防人交替業務を担当していた大伴家持が選別して採録しました。なぜ組織的にそのようなことが行われたかについては、防人たちの心情を伝える記録として、防人制度検討に際しての参考資料とするためだったようです。当時の兵部省の長官は橘奈良麻呂で、その父は左大臣の諸兄でしたから、諸兄から奈良麻呂を通じて、家持に防人歌収集の命が下された可能性があります。一方で、家持自身が、父の旅人以来の防人廃止を願う執念から、防人の窮状を訴える歌を収集したとする意見もあります。

 なお、防人歌は長歌1首を除き、東歌と同様にすべてが完全な短歌形式(5・7・5・7・7)で一字一音の音仮名表記による統一した書式になっているところから、家持に進上されるまでに役人の手が加わった可能性が高く、さらには家持による改作が行われた跡が窺える点には留意すべきです。とはいえ、防人たちの根本の発想や気持ちを伝える歌であることには違いありません。