大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

東歌(31)・・・巻第14-3424~3425

訓読 >>>

3424
下(しも)つ毛野(けの)三毳(みかも)の山のこ楢(なら)のす目(ま)ぐはし児(こ)ろは誰(た)が笥(け)か持たむ

3425
下(しも)つ毛野(けの)安蘇(あそ)の川原(かはら)よ石踏まず空(そら)ゆと来(き)ぬよ汝(な)が心 告(の)れ

 

要旨 >>>

〈3424〉下野の三毳の山の小楢のように美しいあの子は、将来いったい誰のために食物の器を差し出すことになるのだろう。

〈3425〉下野の安蘇の川原の石を踏まずに、空を飛ぶ思いでやってきたのだ。さあ、お前の本当の気持ちを言ってくれ。

 

鑑賞 >>>

 下野(しもつけの)の国の歌。下野国は栃木県一帯。3424の「三毳の山」は、栃木県佐野市東方の標高223mの山。「小楢」は、楢の若木。「のす」は「なす」の東国語形。「目ぐはし」は、目に見えて美しい。「くはし」は、完璧な美しさ、霊妙さをいう賛美表現で、『 万葉集』では「細」「麗」「妙」の字があてられています。「児ろ」は女の愛称の東国方言。「笥」は飯を盛る容器。妻にしたい女を笥という語で表現しており、万葉学者の伊藤博は、「愛すべき魅力ある歌。男の深い懸念を活写して、すこぶる新鮮、集中でも特記すべき表現」と評しています。また、佐佐木幸綱は、「山の木を女性にたとえるのは、大和の感覚あるいは後世の感覚では不自然かもしれないが、このあたりの比喩の無骨さこそ、『東歌』の愛すべきところなのではないか」と言っています。

 3425の「安蘇の川原」は栃木県佐野市を流れ、渡良瀬川に合流する秋山川。「川原よ」の「よ」および「空ゆと」の「ゆ」は、いずれも、~を通っての意。なお、別の歌(3404)では上つ毛野の安蘇となっているのに対し、こちらは下つ毛野の安蘇となっていますが、水島義治『校註 万葉集東歌・防人歌』によれば、「上野国と隣接する下野国の足利、安蘇の二郡のあたりは渡良瀬川の流水変遷により、その所属に異動があったか、あるいは安蘇郡はもともと両国に跨って呼ばれたものであろう」と説明されています。

 斎藤茂吉は3424・3425について次のように評しています。「こういう歌は、当時の人々は楽々と作り、快く相伝えていたものとおもうが、現在の吾々は、ただそれを珍しいと思うばかりでなく、技巧的にもひどく感心するのである。小樽の若葉の日光に透きとおるような柔らかさと、女の膚膩(ふじ)の健康な血をとおしている具合とを合体せしめる感覚にも感心せしめられるし、『誰が笥か持たむ』という簡潔で、女の行為が男に接触する程な鮮明を保持せしめているいい方も、石も踏まずとことわって、さて虚空を飛んで来たという云い方も、一体どこにこういう技法力があるのだろうとおもう程である」。作家の田辺聖子も、3425について「何とも楽しい、線の太い歌。こう、むきつけに迫られては、男が可愛くなって、女も『否(いや)よ』とはいえないのではないか」と述べています。

 

田辺聖子

 1928年3月27日生まれ、大阪府大阪市出身の小説家・随筆家。樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学)国文科を卒業した後、会社勤めの傍ら創作活動を始め、58年に『花狩』でデビュー。64年に刊行された『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニィ)』で芥川賞を受賞。その後、大阪弁で男女の機微を描く恋愛小説を次々と発表、評伝小説でも活躍し、87年に俳人・杉田久女の評伝『花衣ぬぐやまつわる…… わが愛の杉田久女』で女流文学賞、93年に俳人小林一茶が主人公の小説『ひねくれ一茶』で吉川英治文学賞、98年に川柳作家・岸本水府の評伝『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代』で泉鏡花文学賞などを受賞した。『源氏物語』の口語訳など、古典文学の翻案にも力を注いだ。95年に紫綬褒章、2008年に文化勲章を受賞。2019年6月6日、91歳で死去した。