大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

暁の夢に見えつつ・・・巻第9-1729~1731

訓読 >>>

1729
暁(あかとき)の夢(いめ)に見えつつ梶島(かぢしま)の礒(いそ)越す波のしきてし思ほゆ

1730
山科(やましな)の石田(いはた)の小野(をの)の柞原(ははそはら)見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ

1731
山科(やましな)の石田の杜(もり)に幣(ぬさ)置かばけだし我妹(わぎも)に直(ただ)に逢はむかも

 

要旨 >>>

〈1729〉明け方の夢にたびたび見えて、梶島の磯を越えては打ち寄せる波のように、妻のことがしきりに思われてならない。

〈1730〉山科の石田の小野の柞原を見ながら、今頃あなたはその山道を越えようとしておられるのでしょうか。

〈1731〉山科の石田の杜にお供え物を捧げたなら、ひょっとして愛しい妻に直(じか)に逢えるだろうか。

 

鑑賞 >>>

 1729は、藤原宇合(ふじわらのうまかい)が、旅にあって京の妻を恋う歌。「梶島」は、所在未詳。第3、4句は眼前の実景であるとともに「しきて」を導く序詞。「しきて」は、幾重にも重なり合って、しきりに。窪田空穂はこの歌を評し、「旅にあって京の妻を恋うという、ほとんど内容の定まったものであるが、この歌は、『暁の夢に見えつつ』とあくまで実際に即しているとともに、一方では妹ということをいわず暗示にとどめる言い方をしている。したがって一首、実感としておちついた味わいをもちながら、その実感が柔らかく、情趣のあるものとなっている」と述べています。

 1730は、妻が夫の旅の道中を思いやった歌で、特段の不安は感じず、石田の柞原を見ることを羨んでいます。「山科の石田」は、京都府山科区の南部。「柞」は、コナラ、クヌギなどの総称。「山道」は、都から東国へ下る際に通る、山科から逢坂山にかかる上り道。「らむ」は、現在推量。1731は、1730に応じた形の宇合の歌。「杜」は、霊域、神社。「幣」は、神に祈るときの供え物。「けだし」は、ひょっとして、もしかすると。「直に」は、直接に。

 藤原宇合不比等の3男で、藤原4家の一つである「式家」の始祖にあたります。若いころは「馬養」という名前でしたが、後に「宇合」の字に改めています。霊亀3年(717年)に遣唐副使として多治比県守 (たじひのあがたもり) らと渡唐。帰国後、常陸守を経て、征夷持節大使として陸奥蝦夷 (えみし) 征討に従事、のち畿内副惣管、西海道節度使となり、大宰帥 (だざいのそち) を兼ねましたが、天平9年(737年)、都で大流行した疫病にかかり44歳で没しました。正三位参議で終わりましたが、長く生きていれば当然、納言・大臣になれたはずの人です。『万葉集』には6首の歌が載っています。

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について