大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌(17)・・・巻第15-3782~3785

訓読 >>>

3782
雨隠(あまごも)り物思(ものも)ふ時に霍公鳥(ほととぎす)我(わ)が住む里に来(き)鳴き響(とよ)もす

3783
旅にして妹(いも)に恋ふれば霍公鳥(ほととぎす)我(わ)が住む里にこよ鳴き渡る

3784
心なき鳥にぞありける霍公鳥(ほととぎす)物思(ものも)ふ時に鳴くべきものか

3785
霍公鳥(ほととぎす)間(あひだ)しまし置け汝(な)が鳴けば我(あ)が思(も)ふ心いたもすべなし

 

要旨 >>>

〈3782〉雨のために家にこもって物思いをしていると、ホトトギスが私の住む里にやって来て鳴き立てる。

〈3783〉旅先にあってあの人に恋い焦がれていると、ホトトギスが、この里に一人住む私の目の前を通って、鳴きながら飛んでいった。

〈3784〉心ない鳥だよ、ホトトギス。お前は、私が物思いに沈んでいるこんな時にやってきて鳴いたりしてよいものか。

〈3785〉ホトトギスよ、しばらく間を置いて鳴いてくれないか。お前が鳴くたびに、思い悩んでいる私の心が苦しくてしかたがない。

 

鑑賞 >>>

 越前武生の配所で、中臣宅守が花鳥に寄せて思いを述べて作った歌7首のうちの3首。3783の「こよ」は。ここを通って。3785の「しまし」は、しばらく。「いたもすべなし」は、非常に苦しい、辛い。望郷の思いをかき立てるホトトギスに接し、限りなく物思いにふける歌をもって、約2年にわたっての巻第15後半の歌群は閉じられます。

 宅守は結局、配流された翌年の天平13年(741年)9月の大赦で帰京することができました。その後また位を得るものの、天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱連座して除名され、以後消息不明となっています。宅守の帰京後に弟上娘子との関係がどうなったかも分かりません。もしかしたら、再会を待たず、娘子は亡くなってしまったのかもしれません。歌群の最後が花鳥を歌う宅守の独泳歌で終わっているのは、それを暗示していると感じられなくもないところです。

 これらの贈答歌は、まるで愛の私小説であるかのような歌の流れとなっており、さらにその結末がどうなったかよく分からないのも、想像を大いにたくましくするところです。一方では、あまりにも巧みな歌物語的な構成であるため、後人の創作ではないかとする見方や、実録を基に編者が手を加えて成ったとする考え方があります。しかし、二人の歌の調子が異なっているので、原歌は、やはり2人によって詠まれたのでしょう。

 『新万葉考』『万葉幻視考』などを著した大浜厳比古氏は、諸説を列挙した上で、「諸説の向かうに、やはり一人の創作詩人の姿――それは新しい意味での創作意識に目醒めた一人の教養文人――と、彼の創作材料となるべき事件および若干の歌稿ないし記録とが浮かんでくる。この二つが相俟って出来た『実録風な創作(ドキュメンタリ・フィクション)』と見るのであり、その創作詩人は誰かといえば、やはり家持を置いて他には考えられない」と述べています。