大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

ひさかたの天の川に上つ瀬に・・・巻第9-1764~1765

訓読 >>>

1764
ひさかたの 天(あま)の川(がは)に 上(かみ)つ瀬に 玉橋(たまはし)渡し 下(しも)つ瀬に 舟(ふね)浮(う)けすゑ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 裳(も)濡(ぬ)らさず 止(や)まず来(き)ませと 玉橋渡す

1765
天の川(がは)霧(きり)立ちわたる今日(けふ)今日(けふ)と我(あ)が待つ君し舟出(ふなで)すらしも

 

要旨 >>>

〈1764〉天の川の、上流には美しい橋を渡し、下流には舟を並べて舟橋を設け、雨が降って風が吹かないときでも、風が吹いて雨が降らないときでも、裳裾を濡らすことなくいつもおいで下さいと、私は美しい橋を渡しています。

〈1765〉天の川に霧がたちこめてきた。今日か今日かと私がお待ちしているあの方が、今、舟出をなさるらしい。

 

鑑賞 >>>

 七夕の歌。左注に「右の件の歌は、或いは中衛大将(ちゅうえいだいしょう)藤原北卿の宅にして作る、といふ」とあります。「中衛」は神亀5年(728年)に置かれた宮中を守護する令外の官で、大同2年(807年)に右近衛府と改称されました。藤原北卿は藤原房前のことで、彼が大将になったのは天平2年(730年)とされます。ここの歌は房前の家での七夕の宴で作られた歌とみられますが、作者が誰とは明記されていません。

 1764の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天の川」の原文「天漢」は、中国の漢水(長江中流部の支流)に天空の銀河を見立てた呼称。「玉橋」は、美く飾った橋をイメージしての呼称。「舟浮けすゑ」は、舟を浮かべて固定し。いわゆる舟橋を渡す意。「止まず」は、絶えず、いつも。「来ませ」の「ませ」は、尊敬の補助動詞「ます」の命令形。1765の「霧」は、舟が進むことによって立つ水煙。「今日今日と」は、今日か今日かと連日。「我が待つ君し」の「し」は、強意の副助詞。「舟出すらしも」の「らし」は、根拠に基づく推定。霧が立ったのを根拠に舟出したと確信しているものです。

 長歌は牽牛の立場、反歌は織女の立場から歌っています。また、長歌は、女の衣装である「裳」濡らさずとあるので、織女が牽牛を訪ねていく中国伝説に従っています。一方、反歌は牽牛が訪ねていく日本の発想に従っていて、両者は調和していません。同一人の作とは考えられず、左注に藤原房前宅で詠まれているとあるので、おそらく七夕の宴席で複数人が詠み合った中から、適宜、長歌と短歌を抜き出して並べておいたのを、後人が不用意に長歌反歌に編集したものであろうと推測されています。

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引