大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

君が舟今漕ぎ来らし・・・巻第10-2045~2047

訓読 >>>

2045
君が舟(ふね)今漕ぎ来(く)らし天の川 霧(きり)立ちわたるこの川の瀬に

2046
秋風に川波(かはなみ)立ちぬしましくは八十(やそ)の舟津(ふなつ)にみ舟 留(とど)めよ

2047
天の川の川音(かはと)清(さやけ)し彦星(ひこぼし)の秋漕ぐ舟の波のさわきか

 

要旨 >>>

〈2045〉あの方の舟は、今こそ漕いでこちらに来るらしい。天の川に霧が立ちこめてきた、この川瀬に。

〈2046〉秋風が吹いて川波が立ち始めました。しばらくの間は、あちこちの舟だまりのどこかに舟をとどめて下さい。

〈2047〉天の川にの水音がはっきり聞こえる、秋になって彦星が漕ぎ出した舟の立てる波のざわめきだろうか。

 

鑑賞 >>>

 七夕の歌。2045の「漕ぎ来らし」の「らし」は、根拠に基づく推量。2046の「しましくは」は、しばらくは。「八十」は、多くというのを具象的にいったもの。「舟津」は、舟の発着する場所。

 

作者未詳歌

 『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。

 7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、機内圏のものであることがわかります。