大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

大海人皇子の歌・・・巻第1-25

訓読 >>>

み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくぞ 雪は降りける 間(ま)無くぞ 雨は振りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来し その山道(やまみち)を

 

要旨 >>>

吉野の耳我の山には、時となく雪は降る。絶え間なく雨は降る。その雪やの雨の絶え間がないように、曲がり角という曲がり角を不安に襲われながらやってきたのだ、この山道を。

 

鑑賞 >>>

 壬申の乱直前の天智10年(671年)10月、大海人皇子(おおあまのおうじ)が皇太弟の地位を辞して出家し、吉野に入る時の歌とされます。この時、大海人皇子は40代の前半。『日本書紀』には大海人皇子の吉野入山以外のことは何も書かれていませんが、この歌は、兄の天智方と争わなくてはならない運命への深刻な思いが詠われているとするのが有力です。21で額田王に和した歌で示した、開けっぴろげで大胆なさまとは全く別人の感のある歌となっています。

 「み吉野」の「み」は美称。「耳我の嶺」は吉野山中の高峰とされますが、どの峰かは不明。「隅もおちず」の「隅」は道の曲がり角、「おちず」は、漏らさずで、絶えずの意。「思ひ」が何であるかには全く触れられていないものの、吉野の山道の寒く暗い情景と、陰鬱にとざされて山中を辿る皇子の姿が想像され、その思いの重大さ、深刻さが感じられます。

 一方で、この歌は、もともと恋人の家に通う気持ちを歌った民謡であるとする見方があります。けれども、これが大海人皇子の歌とされたのは、いかにも吉野入りの時の気持ちに合致するものだったからだろうといいます。

 『日本書紀』の記述には、大海人皇子は宇治まで左大臣・右大臣・大納言の見送りを受けたとあります。そこから飛鳥に入って島の宮に泊まり、吉野に向かい、吉野の宮滝にあった離宮に入ったもののようです。皇子を見送って帰る際、ある人が言った「虎に翼を着けて放てり」という、その後の壬申の乱の勃発を暗示するような記述もあります。

 なお、藤原氏の家史『藤氏家伝』に、次のような話が載っています。―― 668年、天智天皇の即位後に酒宴が開かれ、大海人が長槍で敷板を刺し貫くという暴挙を働いた。驚き怒った天智が大海人を殺そうとしたが、藤原鎌足がそれを諫めて止めた。その後、天智が亡くなり、皇位をめぐって天智の息子の大友皇子と争うことになった時、大海人は、「大臣(鎌足)が生きていれば、私はこのような苦しい目にあわずに済んだのに」と嘆いたという。 ―― もっとも、『藤原鎌足伝』を撰述者は藤原仲麻呂といわれ、この話の信憑性には大いに疑問があるとされています。

 

大海人皇子天武天皇)の略年譜

668年 中大兄皇子天智天皇として即位し、大海人皇子東宮となる(1月)
668年 蒲生野で、宮廷をあげての薬狩りが行われる(5月)
671年 天智天皇大友皇子太政大臣に任命(1月)
671年 天智天皇が発病(9月)
671年 天智天皇大海人皇子を病床に呼び寄せる(10月)
     大海人皇子はその日のうちに出家、吉野に下る
     大友皇子を皇太子とする
672年 天智天皇崩御(1月)、大友皇子が朝廷を主宰
672年 大海人皇子が挙兵(6月)、壬申の乱が勃発
672年 大友皇子が自殺(7月)
672年 飛鳥浄御原宮を造営
673年 大海人皇子天武天皇として即位(2月)
679年 6人の皇子らと吉野に赴き「吉野の誓い」を行う
681年 草壁皇子を皇太子に立てる(2月)
683年 大津皇子にも朝政を執らせる
686年 発病(5月)
686年 皇后と皇太子に政治を委ねる
686年 崩御(9月)