訓読 >>>
746
生ける世に我(あ)はいまだ見ず言(こと)絶えてかくおもしろく縫(ぬ)へる袋(ふくろ)は
747
我妹子(わぎもこ)が形見(かたみ)の衣(ころも)下に着て直(ただ)に逢ふまでは我(わ)れ脱(ぬ)かめやも
748
恋ひ死なむそこも同(おな)じぞ何せむに人目(ひとめ)人言(ひとごと)言痛(こちた)み我(あ)れせむ
749
夢(いめ)にだに見えばこそあらめかくばかり見えずしあるは恋ひて死ねとか
750
思ひ絶えわびにしものを中々(なかなか)に何か苦しく相(あひ)見そめけむ
要旨 >>>
〈746〉この世に生まれて以来、私は見たことがりません、言葉にできないほど、こんなに見事に縫った袋は。
〈747〉あなたが贈ってくれた形見の着物を下に着て、じかに逢うまでどうして私は脱いだりしましょうか。
〈748〉恋焦がれて死んでしまうことは、人目を憚って逢えない苦しみと同じこと、どうして今さら、人目やの噂を煩わしく思って逢うのをためらったりするものですか。
〈749〉せめて夢にでもあなたが見えれば生きてもいられよう。これほど見えないということは、恋に死ねというのでしょうか。
〈750〉あなたへの思いが一度は断たれて、気が抜けたように暮らしていたものを、どうして私は、なまじ逢い始めてしまい、再び苦しい思いをしているのだろうか。
鑑賞 >>>
若かりし大伴家持が、のちに彼の正妻となる坂上大嬢に「更に贈る歌15首」のうちの5首。746の「言絶えて」は、言葉にできないほど。「おもしろく」は、見事に。「袋」は、大嬢から家持に贈られたもの。どのようなものだったかは不明ですが、次歌の「形見の衣」を入れた衣装袋のことでしょうか。大嬢は手先の器用な女性だったようです。
747の「形見の衣」の「形見」は、その人の身代わりとなる物。夫婦関係の者が別れている時に、形見として衣を贈り、贈られた衣を下に着ることは、当時はふつうのことでした。「やも」は、反語。748の「何せむに」は、何のために、どうして。「そこも同じぞ」の「そこ」は、その点。直前に述べたことを受けます。「何せむに」は、どうして。「言痛み我れせむ」の「言痛み」は、人の噂がうるさいこと。「ミ語法+~す」は、~だと思う、の意。
749の「あらめ」は、生きてもいられよう、の意。「見えずしあるは」の「し」は、強意の副助詞。750の「思ひ絶え」は、あきらめて。「わびにしものを」の「ものを」は逆接で、思い沈んでいたものを。「中々に」は、なまじっか、中途半端に。「相見そめけむ」は、逢い始めたのだろう。