大和の国のこころ、万葉のこころ

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夕されば小倉の山に鳴く鹿は・・・巻第8-1511

訓読 >>>

夕されば小倉(をぐら)の山に鳴く鹿は今夜(こよひ)は鳴かずい寝(ね)にけらしも

 

要旨 >>>

夕暮れになるといつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない。もう夫婦で寝てしまったのだろう。

 

鑑賞 >>>

 「岡本天皇の御製歌」とあり、飛鳥岡本宮に都を定めた舒明天皇の御製。ただし、天皇の皇后で舒明の死後に即位して皇極天皇となり、さらに重祚して斉明天皇となった女帝も、岡本宮に都したことがあるため、斉明天皇の御製とする説もあります。鹿が鳴くのは、妻を求めているからといわれ、今夜鳴かないのは、きっと妻にめぐり逢えたからだと思いやっています。「夕されば」は、夕暮れになるといつも。「小倉の山」は、奈良県にある山ながら所在未詳で、桜井市多武峰付近の山かとされます。「い寝にけらしも」の「けらし」は、ケルラシの約で過去推量。「も」は、詠嘆。

 なお、巻第9-1664に、雄略天皇の御製歌「ゆふされば小倉の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寝ねにけらしも」が載っており、左注に、類似歌であるがどちらが正しいか審(つまび)らかでないから、塁(かさ)ねて載せたとあります。歌調からすると、少し新しすぎるので、雄略天皇御製ではなく舒明天皇御製とみる説が有力です。また、「臥す鹿の」と「鳴く鹿は」とで、好みも分かれているようで、「鳴く鹿は」「鳴かず」という同音の繰り返しは、声調がややざわついており、「臥す鹿の」の方が、鎮静した気分にはふさわしいとする意見があります。一方、作家の田辺聖子は、調べが美しい「鳴く鹿」の方が好みだと言っています。

 斎藤茂吉は1511のこの歌を評し、御製は調べ高くして潤いがあり、豊かにして弛(たる)まざる、万物を同化包摂したもう親愛の御心の流露であって、「いねにけらしも」の一句はまさに古今無上の結句だと思う、また、第四句で「今夜は鳴かず」と、其処に休止を置いたから、結句は独立句のように、豊かにして逼(せま)らざる重厚なものとなったが、よく読めばおのずから第四句に縷(いと)の如くに続き、また一首全体に響いて、気品の高い、言うに言われぬ歌調になった、と言っています。そして、この歌は万葉集中で最高峰の一つと思う、とも。

 

 

 

舒明天皇

 628年に推古天皇崩御すると、その後嗣をめぐって、田村皇子を推挙する勢力と山背大兄王を擁立しようとする一派とに群卿は真っ二つに割れました。その対立のため、舒明天皇(田村皇子)が即位するまで皇位は9か月間も空白のままでした。

 群卿による会議は何回となく繰り返されました。蘇我馬子の後を継いで大臣となった蘇我蝦夷は、山背大兄王の即位に強く反対し、そのため蝦夷推古天皇の遺詔を矯(かた)るという大罪を犯してまで田村皇子を推挙したといわれています。血統から見れば、山背大兄王蘇我一族の血を多くひいていましたが、聖徳太子の子であり、その遺徳と精神の正統を継承していることから、かならずや蘇我一族の繁栄の妨げになるだろうとの思惑があったからです(聖徳太子が在世中には、蘇我馬子は大臣の地位にも就けなかった)。

 一方の田村皇子は、蘇我一族とは全く血縁関係がなかったものの、蝦夷は妹の法堤郎女(ほてのいらつめ)を皇子の妃の一人に入れていて、法堤郎女はすでに古人大兄皇子(ふるひとのおひねのみこ)をもうけていました。田村皇子が皇位に就けば、蝦夷天皇外戚にとなり、さらに古人大兄皇子が皇位に就くという好機がくるかもしれない、との目論見がありました。

 しかし、そうした蝦夷の野望と陰謀を打ち砕いたのは、ほかならぬ舒明天皇その方でした。田村皇子は舒明天皇として即位すると、皇統の宝皇女(たからのひめのみこと)を皇后として立て、その間に生まれた中大兄皇子大海人皇子の兄弟が蘇我一族の息の根を止めたのです。

『万葉集』掲載歌の索引