訓読 >>>
496
み熊野(くまの)の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思へど直(ただ)に逢はぬかも
497
古(いにしへ)にありけむ人もわがごとか妹(いも)に恋ひつつ寝(い)ねかてずけむ
498
今のみのわざにはあらず古(いにしえ)の人そまさりて音(ね)にさへ泣きし
499
百重(ももへ)にも来(き)しかぬかもと思へかも君が使ひの見れど飽かざらむ
要旨 >>>
〈496〉熊野の海辺に群がって生えている浜木綿のように、幾重にも心では思っても、じかに逢えないことだなあ。
〈497〉昔の人たちも私と同じように、妻を恋い続けて寝つけなかったのだろうか。
〈498〉今に限ったことではなく、昔の人だって、私以上に声を張り上げて嗚咽したに違いありません。
〈499〉百回でも繰り返し来てほしいと思っているからか、あなたの使いはいつ見ても見飽きることがありません。
鑑賞 >>>
柿本人麻呂の4連作で、持統4年(690年)の紀伊国行幸に従駕した時の作と見られています。男女の掛け合いになっており、内側の第2、第3首と、外側の第1、第2首とが対応する波紋型構造をとる歌です。すなわち第3首は第2首の、第4首は第1首のそれぞれの言葉を受けて女の立場でうたわれており、男性歌人による女歌の創始がここにあるともいわれます。行幸先の宴席で人麻呂が披露した問答歌とされます。
496の「み熊野の」の「み」は、接頭語。固有名詞では吉野と熊野のみに付きます。「熊野」は、現在の和歌山県の南部と三重県の一部。「浜木綿」は、暖かい地方の海浜の砂地に生じるヒガンバナ科の常緑多年生の草で、この海岸一帯は今でも浜木綿の群生地として有名です。「み熊野の浦の浜木綿」は「百重なす」を導く序詞。「百重なす」は、幾重にも重なっているように。ただし、百重をなしているのは、花、葉、茎、あるいは波頭の喩えなどとする説に分かれています。「心は思へど」は、心には思うけれども。「直に」は、直接に。紀州は万葉びとが多く訪れた地であるので、浜木綿の純白の乱れるような花弁は、たいそう珍しがられたことでしょう。ただし、『万葉集』で浜木綿が歌われたのは、この1首のみで、中古以降にこの歌を本歌として浜木綿を歌うことが多くなりました。
497の「古にありけむ人も」の「けむ」は、過去推量の助動詞。「恋ひつつ」は、恋い続けて。「寝ねかてずけむ」の「かて」は、可能を表す補助動詞「かつ」の未然形、「けむ」は過去推量で、寝ても眠れなかっただろう。窪田空穂は、「人麿はものを感じるに、空間的に、感覚として感じるだけにとどまらず、時間的に、永遠の時の流れの上に泛(うか)べて感じる人で、これは多くの歌に現われていることである。この歌もそれであって、恋の苦悩をしている自身を永遠の人生の上に捉えているものである」と評しています。『柿本人麻呂歌集』の歌には、これと上句を同じくして次のような歌があります。「古にありけむ人も我がごとか三輪の檜原にかざし折りけむ」(巻第7-1118)。
498の「わざ」は、原文「行事」で、ここでは、寝ても眠れない、涙を流すなどの恋の苦しみ全般のこと。「古の人そまさりて」は、昔の人の方が今の自分よりも苦しみがまさっていて。「音にさへ泣きし」は、声を出してまで泣いた。「泣きし」の「し」は、上の「ぞ」の係り結びで連体形。
499の「百重にも」は、百たびも、数多くも。「来しかぬかも」の「しか」は「しく」の未然形で、たび重なる意。「ぬかも」は、願望。「思へかも」の「かも」は、疑問。「君が使ひ」とあるので女の立場で詠んだ歌ですが、窪田空穂は「人麿が女に代わって詠むということも絶無のこととはいえないが、一首の調べのたどたどしく、洗煉のないところを見ても、明らかに他人の歌とみえる」と言っています。やはり男女の贈答唱和と見るべきでしょうか。