大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

志賀の海人の歌(2)・・・巻第16-3865~3869

訓読 >>>

3865
荒雄(あらを)らは妻子(めこ)が業(なり)をば思はずろ年(とし)の八年(やとせ)を待てど来(き)まさず

3866
沖つ鳥(とり)鴨(かも)とふ船の帰り来(こ)ば也良(やら)の崎守(さきもり)早く告げこそ

3867
沖つ鳥(とり)鴨(かも)とふ船は也良(やら)の崎 廻(た)みて漕(こ)ぎ来(く)と聞こえ来(こ)ぬかも

3868
沖行くや赤ら小舟(をぶね)につと遣(や)らばけだし人見て開き見むかも

3869
大船(おほぶね)に小舟(をぶね)引き添へ潜(かづ)くとも志賀(しか)の荒雄に潜き逢(あ)はめやも

 

要旨 >>>

〈3865〉荒男は、妻子の暮らし向きを思わなかったのだろうか。もう八年も待っているのに、一向にお帰りにならない。

〈3866〉沖に棲む鳥、その鴨という名の船が帰ってきたら、也良の崎の見張りの人よ、一刻も早く知らせておくれ。
 
〈3867〉沖に棲む鳥の鴨という名の船が、也良の崎を漕ぎめぐって帰ってきたと、噂でもいいから聞こえてほしい、けれど少しも聞こえてこない。
 
〈3868〉沖を漕いで行くあの赤い小舟に、土産物を送り届けておいたら、ひょっとしてあの人が気づいて開けて見てくれるだろうか。
 
〈3869〉大船に小舟を引き連れて、海中に潜ってみても、今となっては志賀の荒男に出逢うことなどあろうか。

 

鑑賞 >>>

 「筑前(つくしのみちのくち)の国の志賀(しか)の海人(あま)の歌」10首のうちの後半の5首です。「志賀」は福岡市東区志賀島。今は陸続きになっています。なお、左注にはこれらの歌についての説明があります。

 ―― 神亀(じんき)年間に、大宰府が、筑前国宗像郡の民、宗形部津麻呂(むなかたべのつまろ)を指名して、対馬へ食料を送る船の船頭にあてた。指名された津麻呂は、滓屋郡志賀村に住む漁師の荒雄を訪ね、「ちょっとした頼み事があるのだが、聞いてもらえまいか」と相談をもちかけた。荒雄が答えて言うには、「私はあなたと郡は別だが、同じ船に長く乗ってきた。だから、あなたへの思いは兄弟以上であり、あなたのために死ぬことがあって拒むことなどあろうか」と答えた。津麻呂は、「大宰府の役人が私を対馬に食料を送る船の船頭に指名してきた。しかし、年を取って衰えた体では海路に耐えられそうにない。それでこうして参上した。なんとか交代していただけないだろうか」と言った。そこで荒雄は承諾して、その仕事を引き受けることになった。肥前国松浦県の美祢良久の岬から船出し、まっすぐ対馬をめざして海を渡っていると、にわかに空が暗くなり、暴風雨となって、とうとう追い風を失い海中に沈んでしまった。そこで妻子は、子牛が母を慕うような情に耐えかねて、この歌を作ったという。あるいは、筑前国守の山上憶良が妻子の悲しみに我が悲しみとして同情し、心中の思いを述べてこの歌を作ったともいう。――

 3865の「思はずろ」の「ろ」は間投助詞。3866・3867の「沖つ鳥」は沖に棲む鳥で「鴨」の枕詞。「鴨」は、荒雄が乗っていた船の名。「也良」は、能古島の北端の岬とされます。「崎守」は、監視のために置かれた防備兵。「告げこそ」の「こそ」は願望。「廻みて」は、巡って、廻って。3868の「赤ら小舟」は、船体を赤く塗った舟。「つと」は、食糧、土産物。「けだし」は、ひょっとすると。3869の「潜く」は、水中に入って捜索する。「逢はめやも」の「やも」は反語。最後は荒雄の死を認め、絶望の歌で全体を終えています。