大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

なでしこが花見るごとに娘子らが・・・巻第18-4113~4115

訓読 >>>

4113
大君(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と 任(ま)きたまふ 官(つかさ)のまにま み雪降る 越(こし)に下(くだ)り来(き) あらたまの 年の五年(いつとせ) しきたへの 手枕(たまくら)まかず 紐(ひも)解(と)かず 丸寝(まろね)をすれば いぶせみと 心なぐさに なでしこを やどに蒔(ま)き生(お)ほし 夏の野の さ百合(ゆり)引き植ゑて 咲く花を 出で見るごとに なでしこが その花妻(はなづま)に さ百合花(ゆりばな) ゆりも逢はむと 慰(なぐさ)むる 心しなくは 天離(あまざか)る 鄙(ひな)に一日(ひとひ)も あるべくもあれや

4114
なでしこが花見るごとに娘子(をとめ)らが笑(ゑ)まひのにほひ思ほゆるかも

4115
さ百合花(ゆりばな)ゆりも逢はむと下延(したは)ふる心しなくは今日(けふ)も経(へ)めやも

 

要旨 >>>

〈4113〉大君の遠方の朝廷として、ご任命の役目のままに、雪の降る越の国に下ってきて、以来五年もの間、妻の手枕もまかず、着物の紐も解かずに独り寝をして心が晴れないので、その心の慰めに、なでしこをわが庭に蒔いて育て、夏の野の百合を引いてきて植え、花が咲くのを庭に出て見るごとに、なでしこの花のように美しい妻に、百合の花の後(ゆり)には逢おうと慰める心でもなければ、都から遠い田舎の地に一日たりとも暮らしていけようか。

〈4114〉なでしこの花を見るたびに、妻のほほえむ顔のあでやかさが思われてならない。

〈4115〉百合の花の名のように、ゆり(後)にきっと逢おうと、心中ひそかに思う心がなければ、今日の一日たりとも過ごせようか。

 

鑑賞 >>>

 天平勝宝元年(749年)閏5月26日、大伴家持による「庭中の花を見て作る」歌。4113の「遠の朝廷」は、都から遠く離れた役所。「任く」は、任命して派遣する。「あらたまの」は「年」の枕詞。「しきたへの」は「手枕」の枕詞。「いぶせみ」は、心が晴れない。「さ百合花」は「ゆり」の枕詞。「ゆり」は「後」の古語。「鄙」は、都から遠い地。「あるべくもあれや」の「や」は反語。「なでしこがその花妻に」とあるのは、ナデシコの花のように可憐な妻として、都にいる大嬢を想い起しています。秋の七草の一つであるナデシコは、夏にピンク色の可憐な花を咲かせます。『万葉集』では「石竹」「瞿麦」などと表記されますが、我が子を撫でるように可愛らしい花であるところから「撫子(撫でし子)」の文字が当てられています。そのため、他の植物に比べて擬人化や感情移入の度合いが強いようです。ただ、『万葉集』では27首にナデシコが歌われていますが、万葉前期の歌には見られず、家持(12首)とその周辺に偏って現れています。

 4114の「娘子」は、妻の大嬢のこと。「笑まひ」は、ほほえみ。「にほひ」は、色美しく映えること。4115の「さ百合花」は「後(ゆり)」の枕詞。「下延ふ」は、心中ひそかに思う。「やも」は反語。