訓読 >>>
3860
大君(おほきみ)の遣はさなくにさかしらに行きし荒雄(あらを)ら沖に袖(そで)振る
3861
荒雄(あらを)らを来(こ)むか来(こ)じかと飯(いひ)盛(も)りて門(かど)に出で立ち待てど来まさず
3862
志賀(しか)の山いたくな伐(き)りそ荒雄らがよすかの山と見つつ偲(しの)はむ
3863
荒雄らが行きにし日より志賀の海人(あま)の大浦田沼(おほうらたぬ)は寂(さぶ)しくもあるか
3864
官(つかさ)こそさしても遣(や)らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る
要旨 >>>
〈3860〉大君がお遣わしになったわけでもないのに、みずから進んで海に出た荒男、その荒男が沖に出てしきりに袖を振っている。
〈3861〉荒雄が帰って来るか来ぬかと、ご飯を盛って供え、門に出て立っては待っているけど、いっこうに帰っておいでにならない。
〈3862〉志賀島の山をそんなにひどく刈り取らないで。あの人を偲ぶよすがの山と見ながら、ずっと偲んでいきたい。
〈3863〉あの荒男が海に出てからというもの、志賀の海人たちの住む大浦田沼は、何とも寂しくなったことだ。
〈3864〉お役所なら指名して遣わすこともあろうけど、みずから進んで行った荒男が、波間で袖を振っている。
鑑賞 >>>
「筑前(つくしのみちのくち)の国の志賀(しか)の海人(あま)の歌」10首のうちの前半の5首です。「志賀」は福岡市東区の志賀島。今は陸続きになっています。なお、左注にはこれらの歌についての説明があります。
――神亀(じんき)年間に、大宰府が、筑前国宗像郡の民、宗形部津麻呂(むなかたべのつまろ)を指名して、対馬へ食料を送る船の船頭にあてた。指名された津麻呂は、滓屋郡志賀村に住む漁師の荒雄を訪ね、「ちょっとした頼み事があるのだが、私の言うことを聞いてもらえまいか」と相談をもちかけた。荒雄が答えて言うには、「何でも聞きますよ。私はあなたと郡は別だが、同じ船に長く乗ってきた。だから、あなたへの思いは兄弟以上であり、あなたのために死ぬことがあって拒むことなどあろうか」と答えた。津麻呂は、「大宰府の役人が私を対馬に食料を送る船の船頭に指名してきた。しかし、ご覧の通り私は年を取り、体も衰えて、海路に耐えられそうにない。何とか私に代わってはくれまいか」と言った。荒雄はすぐに承諾した。そしてただちに、肥前国松浦県の美祢良久の岬から船出した。まっすぐ対馬をめざして海を渡っていると、にわかに空が暗くなり、暴風雨となって、順風を得ず、とうとう海中に沈んでしまった。そこで妻子は、子牛が母を慕うような情に耐えかねて、この歌を作ったという。あるいは、筑前国守の山上憶良が妻子の悲しみに我が悲しみとして同情し、心中の思いを述べてこの歌を作ったともいう。――
荒男の、人のよさにゆえに、あたら命を落としてしまったという悲しい物語です。対馬は、日本の国防にとって重要な島であり、島に食糧を届けるのは、そこに駐留する官吏や防人のためでした。玄海灘と対馬海峡を越えて行くのは、九州北辺の漁師たちにとっては命がけの大任でした。この輸送には筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後の国が交替で当たり、毎年、米二千石を届けていたといいます。事件が起こった神亀年間(724~729年)は聖武天皇の時代にあたり、山上憶良は、神亀3年ごろに筑前守としてこの地に赴任していました。この事件が起こった神亀年間(724~729年)は聖武天皇の時代にあたり、山上憶良は、神亀3年ごろに筑前守としてこの地に赴任しました。
3860の「さかしらに」は、自分の任務でもないのに、自ら進んでの意。「荒雄ら」の「ら」は、親しみをあらわす語。「袖振る」は、相手の魂を招き寄せる呪術的行為の一つであり、古来、衣の袖には魂が宿ると信じられてきました。3862の「いたく」は、ひどく、甚だしく。「な伐りそ」の「な~そ」は禁止。「よすかの山」は、思い出す拠り所となる山。3863の「大浦田沼」は志賀島の湿原とされます。3864の「官こそさしても遣らめ」は、役所が指名して派遣するのなら納得できるが、の意。