大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

いにしへの神の時より逢ひけらし・・・巻第13-3289~3290

訓読 >>>

3289
み佩(は)かしを 剣(つるぎ)の池の 蓮葉(はちすば)に 溜(た)まれる水の 行くへなみ 我(わ)がする時に 逢ふべしと 逢ひたる君を な寐寝(いね)そと 母聞こせども 我(あ)が心 清隅(きよすみ)の池の 池の底 我(わ)れは忘れじ 直(ただ)に逢ふまでに

3290
いにしへの神の時より逢ひけらし今の心も常(つね)忘らえず

 

要旨 >>>

〈3289〉お佩きになる剣の名の剣の池の、蓮の葉の上に宿っている雫のように、行き場がなくて途方に暮れている時に、必ず夫婦になろうと、思いを遂げているあなたなのに、共寝をするなと母はおっしゃる。けれども、私の心は清隅の池の底のように深く思って、忘れはしない、直接あなたにお逢いするまでは。

〈3290〉古の神代から、あなたとは夫婦としてお逢いしていたのだろう。今の今も、いつも心にかかって忘れられない。

 

鑑賞 >>>

 母親から、男に逢うのを妨げられている女の嘆きをうたった歌。3289の「み佩かしを」は「剣」の枕詞。「剣の池」は、橿原市石川町の池。「行くへなみ我がする時に」は、行き場がなくて途方に暮れている時に。「な寐寝そ」の「な~そ」は禁止。「聞こす」は、言うの尊敬語。「我が心」は「清隅(所在未詳)」の枕詞。3290の「けらし」は、過去推量。

 3289について窪田空穂は、母親から男に逢うのを妨げられて嘆く女の歌は多いものの、いずれも短歌であり表現も粗野であるのに、この歌は長歌であり、表現技巧が甚だ高度で、反歌とあわせて読むと、飛鳥朝末期から奈良朝にかけての貴族で、教養高く、文芸にすぐれた人の作と思われる、と述べています。