訓読 >>>
ひさかたの天(あま)の香具山(かぐやま)このゆふへ霞(かすみ)たなびく春立つらしも
要旨 >>>
天の香具山に、この夕暮れ、霞がたなびいている。どうやら、春になったらしい。
鑑賞 >>>
巻第10の巻頭歌で、『柿本人麻呂歌集』から「春の雑歌」。「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天の」は、香具山を称えて添える語で、慣用されているものです。香具山は、人麻呂のいた藤原京のほとりの山で、畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)とともに大和三山の一つ。「春立つらしも」の「らし」は根拠に基づく推定、「も」は詠嘆。なお、この歌を本歌として、『新古今集』に「ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく」(巻第1-2、後鳥羽上皇)という歌があります。
斉藤茂吉によれば、「この歌はあるいは人麿自身の作かも知れない。人麿の作とすれば少し楽に作っているようだが、極めて自然で、佶屈でなく、人心を引き入れるところがあるので、有名にもなり、後世の歌の本歌ともなった」。また、詩人の大岡信は、「いかにも人麻呂の作らしい、ゆったりした快い声調の歌であり、巻頭に置くにはまことにふさわしい歌といえる」と述べています。
さらに、国文学者の池田彌三郎は、「この歌で、『このゆふべ』と、作者が展望している『時』をはっきりと言い出し、指定していることは、この叙景歌に特に生命を与えている。しかし、この言い方は多くの追随者を生んで、だんだん『この』が際どくなってきて、暦の上で春が来た『この』日、というような興味に堕していってしまう。あとに続く同類の歌のために、鑑賞を妨げられ、価値を減殺されることは致し方がないが、それはこの歌の責任ではない」とも述べています。
なお、『万葉集』には、春の到来や秋の到来を「春立つ」「秋立つ」と表現する歌が散見されます。これらは二十四節気の「立春」「立秋」から来ているともいわれますが、しかし「立夏」「立冬」に対応するはずの「夏立つ」「冬立つ」の表現は見られません。「立つ」とは、神的・霊的なものが目に見える形で現れ出ることを意味する言葉であることから、農耕生活にもっとも大切な季節とされた春と秋が、そうした霊威の現れとして意識されていたと窺えます。