大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

ますらをの弓末振り起し射つる矢を・・・巻第3-364~365

訓読 >>>

364
ますらをの弓末(ゆずゑ)振り起(おこ)し射(い)つる矢を後(のち)見む人は語り継(つ)ぐがね

365
塩津山(しほつやま)打ち越え行けば我(あ)が乗れる馬ぞつまづく家(いへ)恋ふらしも

 

要旨 >>>

〈364〉立派な男子たる私が弓の先端を振り起こして射かけた矢、その矢の見事さは後の世の人が語り継いでいくだろう。

〈365〉塩津山を越えていくとき、私の乗っている馬がつまづいた。家で妻が私を恋しがっているからだろう。

 

鑑賞 >>>

 笠金村が塩津山で作った歌。「塩津山」は、琵琶湖北端の地、長浜市西浅井町塩津浜から敦賀に越えて行く国境の山で、難所として知られていました。越前から運ばれてきた塩をここから都に湖上輸送したことから「塩津」と呼ばれました。ここの歌は、笠金村が都から北陸へ行く道中に詠んだ歌と見られます。

 364の「語り継ぐがね」の「がね」は、願望の終助詞。この時代、旅行で深い山などを通る際に安全を願って峠の神木に矢を射る風習があり、諸国に矢立峠(やたてとうげ)・矢立杉(やたてすぎ)の名が残っているのはそのためです。その矢は神事の矢であるため、巨大な鏃(やじり)が多く、見事に射当てたその矢を、多くの人が見て語り継ぐだろうと自慢しています。

 365について、馬がつまずくのは、家の人が自分を恋しく思っている証しとされていました。上代の馬は、現代の競走馬とは違い、体高(肩までの高さ)は130センチほどの小型でした。がっしりした体形の馬でも、人を乗せるのはけっこう辛かったはずで、ひょっとしてつまずきやすかったのかもしれません。